一の門跡 | ||
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藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが 岩村城の本城である。一の門は櫓門(二階建)で、左側に 番所があって、平時でも監視の番人がいて、出入りするものも 厳重に調査してから通した。続いて多門(石垣の上に設けた 長屋で、城壁を兼ねた)があり、常に武士が詰めていた。 一の門は岩村城守備の第一線で、櫓門の上から城下町を一望に 出来る町の動静については、昼夜を問わず兵が看視に当っていた。 右手に高い石垣(石塁)が連なり、高台に屋敷もあった。一の門をくぐると、 土岐坂となるが、その突き当りの石垣の約10m巾は、岩村城において、 最も古く中世末期のものといわれている。(案内板より) | ||
屋敷跡の石垣 | 一の門方面を振り返って… | 土岐門跡 |
一の門跡を過ぎ、右の高台の 屋敷跡の石垣(石塁)。 |
一の門方面を振り返ったもので、 左が屋敷跡。結構高さがある。 |
土岐殿門ともいい、 土岐氏に関係あるとか。 |
大手門跡(左奥)、三重櫓跡(正面)、畳橋跡(手前の石垣) | |
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畳橋は、敵が攻めてくると橋板をとってしまうのでその名がある。
大手門(追手門)は正門のことで、城門の中で最も重要な門であるから、
その防備は厳重を極めている。大手門は2つあり、1つは櫓門、
1つはその前面の桝形へ入る平重門である。
桝形も大手櫓門をかばう防御施設である。空堀にのぞんで三重櫓(三階建)が
あった。
岩村城は山城で、天守閣は不要であるが、この三重櫓が天守閣の如く
偉容を誇っていたのは、城下町から見上げた時、ここが最も見栄えのする
地点であったからである。しかし、岩村城の本格的要害は、
ここから奥に展開する。この辺りの石垣は最も美しく、絶壁にのぞんだ
三日月形の曲線は扇の勾配とも、または武者返しとも呼ばれている。
(案内板より・絵図も)
(下真ん中=畳橋を架けていた低い石垣部分。 右下=三重櫓跡の石垣。きれいな勾配♪) |
桝形&三重櫓跡 | 振り返って桝形を… | 三重櫓跡 |
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城下町から見上げた時、ここが最も見栄えする場所だったから、 三重櫓を建てたって言うのも凄いな…(笑) | ||
大手櫓門跡方面へ | 大手櫓門跡 |
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八幡曲輪の石垣の高さ、勾配、雰囲気も素敵〜(^^) | 武者返しのきれいなこと!木々の優しい光もいい感じ♪ |
(左)大手櫓門跡付近から八幡曲輪の高石垣! (真ん中)大手櫓門跡から奥を。(右)大手櫓門跡を振り返って。 | ||
竜神の井 | 五郎作屋敷跡 | 五郎作屋敷跡を過ぎて… |
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■竜神の井…
この井戸は、岩村城のうち最大規模で、昭和60年に
創築800年を記念して復元した。
昭和62年に、岐阜県の名水50選に認定されたが、
今も絶えることなく、味は天然のうまさがある。
(岩村町の案内板より)
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霧ヶ井 | ||
霧ヶ井は、鎌倉時代から清らかな水を湛えている。 この井戸は、城主専用のもので、お堂の中にあった。 岩村城の別名を霧ヶ城というが、それは非常に霧が発生しやすい 地勢にあることから名づけられた。伝説によると、敵が攻めてきた時、 城内に秘蔵した蛇骨(だこつ)を霧ヶ井に投入すると、忽ちにして雲霧が湧き出して 全山をおおい、敵兵は地形が見えなくなって攻め倦み、そこへ 城兵が突入して勝利を得た。これは山霊の加護によるもので、 依って霧ヶ城と呼ばれ、天下の名城と伝えられている。 霧ヶ井はどんなに日照りが続いても、決して水の涸れない 不思議な井戸で、江戸時代に100日余り続いた日照りにも、 水は豊富であったと伝えられている。(案内板より) | ||
八幡曲輪跡&石垣(パノラマっぽく加工) | ||
■八幡神社…八幡神社は岩村城創築と同時に譽田別命(ほんだわけのみこと)を 祭神として、城内鎮守の神社とした。岩村城創築の祖、加藤景廉が 承久3年(1221)に没したので、すぐ配神として祀り、座像を納めた。 城主はかわっても、歴代城主及び家中の崇敬は篤く、社殿の 修理などを記録した棟札は永正5年(1508)のものから現存し、 岐阜県重要文化財に指定されている。 武並神社に祀ってある景廉の長男、遠山景朝が御輿に乗って、 八幡神社の父、景廉に会いに行くという岩村町秋祭り行事は、 岐阜県重要無形民族文化財に指定されている。 (案内板より) | ||
八幡櫓跡 | 下から八幡櫓跡 | 八幡宮跡 |
■八幡櫓跡…三間と四間の二階建の建物があった。(案内板より) 結構、高さのある八幡曲輪跡。この下にも段差の土塁があった。 | ||
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