【小田原城 その2】

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小峯曲輪
報徳二宮神社の境内は、戦国時代北条氏によって造成された 古い曲輪にあたる。江戸時代前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と 呼ばれていた。雷曲輪は全国にも例のない面白い名称だが、 由来ははっきりしない。小峯は天守閣の裏手、西側一帯を指す 古い地名なので、これにちなんだものであろう。 目の前の空堀は、左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分である。 石垣を用いない土塁と空堀だけの、戦国時代の城の原形をよく 留めている貴重な遺構である。堀幅は神社境内の土塁から 21m、深さは現状で5m余りだが、実際の堀底はさらに2〜3mは深くなる なるだろう。また堀底には、堀障子と呼ばれる畝状の仕切りが 設けられていたと考えられている。正面右手急斜面の高台は、 本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)である。 小峯曲輪北堀は、今公園路となっている屏風岩と本丸との間の 本丸西堀と、神社裏門出口の辺りで合流し、本丸の南麓、現在の市立図書館 (南曲輪)前から、常盤木門下の九輪橋の方へ向かっていた。 (報徳二宮神社の案内板より)
(左)小峯曲輪北堀。 (右)石垣。 報徳二宮神社が小峯曲輪だけど、 この時、写さなかった…。
(3枚=2006.4.1撮影。)
屏風岩曲輪・屏風岩跡
(左)今は、こども遊園地。 (真ん中)本丸北側から向かう道。 (右)車道から。 (左=2006.4.1、2枚=2010.12.7撮影)
小峯曲輪?本丸?の石垣 本丸南側の石垣 左が本丸、右が南曲輪
本丸南側の崩れた石垣は、江戸時代の石垣だとか! ここの桜がキレイだった♪(3枚=2006.4.1撮影)
南曲輪から常盤木門&常盤木橋(下は本丸東堀跡)
下の本丸東堀跡は菖蒲園になっていて、 時期によって、花が広がる(^^)
(左='06.4.1撮影)南曲輪から。 (真ん中='04.6.19撮影) (右='10.12.7撮影)常盤木橋を上から。奥が常盤木門。
菖蒲園(本丸東堀跡)&紫陽花
紫陽花が色とりどりで凄くきれい!
城跡を散策しながら、花も楽しめる
のは嬉しい♪だけどこの辺りは、
凄〜く乾燥してて、砂が飛ぶ飛ぶ!
コンタクトをしてるから、目に入って
痛かった〜(T_T)
(2枚=2004.6.19撮影)
二の丸
江戸時代の小田原城には、将軍の旅宿専用の「本丸御殿」と、 藩主の居館や行政を行う政庁としての役割を持った「二の丸御殿」 の二つの御殿があった。 「二の丸御殿」は、三代将軍家光が上洛の折小田原城に 止宿した寛永年間(1624〜44)の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も 備えた立派な物だった。 しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震により 小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊し炎上した。 その後、再建され、徐々に増築されたが以前の姿には到底及ばなかった。 平成9・10年には、「二の丸御殿跡」で試掘調査が行われ、 元禄の大地震で真赤に焼けた土と前期の御殿の礎石や屋根に葺かれていた 瓦等出土。また、後期の御殿は前期の焼け跡を一旦埋め立てて新たに建てられた 事もわかった。 (小田原市教育委員会の案内板より)
(左)銅門広場。(真ん中)二の丸御殿跡。 (右)歴史見聞館。(左=2006.4.1、2枚=2004.6.19撮影)
二の丸裏門跡? 二の丸の堀跡? 二の丸隅櫓跡
(左)この辺り? (真ん中&右) この辺りには、ゴロゴロと石垣に使われていた ような石が転がってた。(2006.4.1撮影)
二の丸隅櫓
城主の居館(御殿)があった二の丸主部の南東の隅に位置し、 堀を挟んだ向こう側、三の丸にあった大手門の真後ろを 見渡せる。櫓の内部には武器が格納され、有事の際にはここから 城下を展望し、敵が攻めてきた場合には矢や 鉄砲を放つ様になっていた。昭和9年(1934)6月に復元された物で、 江戸期のものと比較して一回り小さいと言う。 (案内板より) (左&真ん中)桜と♪赤い橋がある頃。(2006.4.1撮影) (右)内側から見ると、不思議な感じ。(2004.6.19撮影)
(左)写真右側は、学橋。 (真ん中&右)復元整備により赤い橋が無くなっていた。 左側に馬出門桝形。
(2010.12.7撮影)
銅門・内仕切門
(左)住吉橋から。 (真ん中)桝形から。 (右)櫓門、桝形、右折れで内仕切門へ。
(左=2006.4.1、2枚=2010.12.7撮影)
銅門(あかがねもん)・櫓門
(左&真ん中)二の丸側。青空の下と 夕日でほんのりの銅門。 (右)桝形から。
(左=2004.6.19、2枚=2010.12.7撮影)
馬屋曲輪から二の丸に通じる大手筋に設けられた 二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪や お茶壷曲輪とは住吉堀によって隔てられている。 江戸時代には、馬出門土橋から城内に入り、 銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと 進むようになっていた。 江戸時代のほぼ全期間を通してそびえていたが、 明治5年に解体。現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や 古写真、絵図等を参考に、平成9年(1997)に復元された。 形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門、を組み合わせた 桝形門で、本来の工法で復元されている。呼び名は、扉の飾り金具に銅を 使用していた事から、付いたとされる。 (案内板より・古写真も)
(左下)馬屋曲輪から。 (下真ん中)瓦を。 (右)本日「銅門」でお待ち申し上げ候の看板。 確かに甲冑武者がいたなぁ(笑) (左下=2010.12.7、2枚=2006.4.1撮影)
銅門土塀模型
この土塀模型は、銅門の建設を行うに際し、 事前に製作したもの。銅門は、
江戸時代の工法、技術を採用している ため、使用する木材や白壁の材料で
ある土の収縮や乾き具合などを確認する 必要があり、この模型は重要な役割
を果たした。 (小田原市の案内板より) (2006.4.1撮影)

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