箱根口門の東櫓台跡 | 桝形土塁 | 箱根口門跡(北を向いて) |
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三の丸小学校付近の箱根口門跡。桝形土塁と東櫓台跡
(写真右では右側部分)が整備されている(^^)
(2006.4.1撮影) |
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箱根口周辺の遺構 | 新道 | |
この道は、小田原城三の丸堀沿いの 道で、文化14年(1817)小田原の 大火の時、逃げ道が無くて多数の 焼死者が出たことから、新たに造ら れたので、新道といった。西の出口 は箱根口へ、東は宮前町高札場の 北側に通じている。 (2006.4.1撮影) |
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三の丸 | ||
(左)三の丸小学校。 (真ん中)小学校内の土塁。怪しまれないようズーム! (右)三の丸の桜並木♪ (2006.4.1撮影) | ||
三の丸 杉浦平太夫&大久保弥六郎邸跡の埋蔵文化財発掘調査 | ||
(仮称)城下町ホール建設予定地では、平成17年9月〜平成20年3月までの間、
埋蔵文化財調査を行う予定。現在調査を行っている小田原警察署跡地は、
小田原城三の丸に辺り、江戸時代後期(19世紀前半)、家老職にあった
杉浦平太夫の邸宅があったことが、古地図から知られている。12月現在では、
杉浦平太夫邸の建物と思われる礎石や石場建と呼ばれる建物の基礎などが、
検出されている。また、その下面には、後北条時代の遺構があることも明らかになっている。
(左下)調査区全景。 (真ん中)石場建遺構。 (右)礎石建物跡。(2006.4.1撮影) |
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大手門跡 | ||
大手門を入ると西側一帯は三の丸となり、道の両側に小田原藩の家老級の
屋敷が並んでいた。それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった
寛永10年(1633)に、3代将軍徳川家光が京都に上るのに備えて、江戸に向く現在地に
移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入る為の、御成道として整備され、
東の入口であった江戸口見附も、国道1号線沿いの現在の位置に移された。
大手門の造りを元禄時代頃の絵図で見ると、三の丸の堀に架かる土橋を
渡ると、外からの攻撃や敵の侵入を防ぐ為の、馬出と呼ばれる空間があり、
更に冠木門と呼ばれる門から、桝形と呼ばれる四角い空間に入る。
この桝形は、櫓門や石垣、塀で囲われており、厳重で、立派な門であったことがわかる。
(小田原市教育委員会の案内板より)
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鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)の所にあったのを、明治29年(1896) 裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。 昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏した為、 政府は金属類の供出命令を出し、鐘は応召された。 昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しく作られた鐘が、 現在の鐘である。(案内板より) | ||
幸田門跡&三の丸土塁&堀跡 | ||
この土塁は、江戸時代の三の丸の土塁跡である。当時は、本丸、二の丸 (現在の城址公園周辺の範囲)を包むように堀と土塁を巡らし、三の丸として いた。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつで ある。この場所の西側に幸田門という三の丸の入口があった。その跡の 一部が発掘調査で見つかっている。戦国時代に上杉謙信や武田信玄が 小田原城を攻めた時には、この幸田門から攻めたと考えられていて、北条 氏康・ 氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜いた。 (案内板より) (下真ん中)土塁。(右下)堀跡。(2006.4.1撮影) |
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弁財天 | 日向屋敷 | 元蔵 |
江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。 しかし、元禄10年(1697)に蓮池の南側にあった 「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、 ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末には この地に、6、7軒ほどの中堅藩士屋敷があった。 (碑より) | 地名の由来は、慶長19年(1614)、小田原城主大久保忠隣が改易と なった時、その夫人である「日向御前」が閑居した屋敷跡があったため といわれている。江戸時代末期には、約14軒の藩士の住まいがあった。 (碑より) | 小田原城主が稲葉氏であった江戸時代前期、小田原城の北方に新しく米蔵が 建設され、これを「新蔵」と呼び、以前から三の丸の弁財天曲輪に あった米蔵は「元蔵」と呼んで区別したらしい。元蔵は江戸時代後期廃止され、 5軒ほどの藩士屋敷に分割。やがてその地名も「弁財天」に含まれるように なった。(碑より) |
焔硝曲輪跡 | 弁財天曲輪跡 | 入谷津 |
真ん中は「弁財天曲輪ポケットパーク」で、
整備するまでの間、開放しているそう。 入谷津の写真は車中から撮ったもの(笑)解説が読めないのが残念だな〜(^^;) |
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