トロとまったり・tripのページ(熊本城 その3)

頬当御門

【左】冠木門の奥に、大天守が見える♪

西出丸から本丸中心部への関門にあたる位置に設けられた冠木門である。 現在の頬当御門は、昭和35年の天守閣再建の時、料金徴収所として旧位置に旧態に似せて再建されたものである。 頬当とは甲冑を着用する時、顔に当てる防具であるから、城郭の顔とも云うべき本丸正面の門を、そのように呼んだのであろう。(標柱より)

【左】頬当御門の右側の石垣。この手前に、奉行丸と数寄屋丸との空堀。
【真ん中&右】付近の加藤氏と細川氏の幟。

数寄屋丸西側の堀&クスノキ

【左】頬当御門から数寄屋丸西側と奉行丸との堀を。 写真右の木が、樹高27m、幹囲685cm、推定樹齢600年のクスノキ!
【右】飯田丸の西櫓門付近から、数寄屋丸西側の堀を。正面奥が、頬当御門とクスノキ。

頬当御門から本丸方面へ

【左】頬当御門から正面に大天守♪ 【真ん中】右折れに。
【右】次は、左折れに。左が平左衛門丸、右が数寄屋丸。

本丸側から頬当御門方面へ

【左】本丸側から頬当御門方面へ。右折れ。
【真ん中】振り返って。
【右】次は、左折れになって頬当御門へ。

数寄屋丸・数寄屋丸二階御広間

数寄屋丸二階御広間は、西に五階櫓、東に地蔵櫓門を配し、梁間七間(約13m)、 桁行十八間(約33m)の建物で、南面の壁には銃眼や石落しもついているが、 内部1階は土間、2階には書院造の座敷があり、全国の城郭建築の中でも非常に珍しいものである。 数寄屋丸とは、秀吉築城大阪城の「山里丸」の流れを引くもので、 熊本城における文化的遊興の空間であったと思われる。 茶会・能・連歌の会等が催され、二階御広間もそのような用途に使われていたと考えられている。 二間半四方で十二畳半の部屋が主室となっており、床の間は二間半の押板だけというシンプルな構造で、 復元に際しては書院造の建物・城内の櫓・絵図等の資料も参考にした。 建築の際は残っていた礎石をそのまま使用し、柱等の主要材は九州山地から伐り出した栂を、 梁には松、土台には栗を使用した。(熊本市の案内板より)

【真ん中】飯田丸から。石垣上に、天守とセットで格好いい(^^)
【右】東竹の丸から。この角度もいいかも♪

地図石

この箱形の石組みは、古くから地図石と呼ばれてきた。 ここの石組みは城の他の部分とは全く異なり、切り石の組み合わせで美しく構成されている。 そのため、その謎を解こうとして先人達が色々と苦心し、 日本地図・熊本城下町図・熊本城平面図を表現したものなど諸説を出したが、 旧藩時代の絵図には「御待合口」との付箋が付いたものがあり、 今日では数寄屋丸二階御広間への参入口の装飾であったと考えられている。(熊本市の案内板より)

木漏れ日が邪魔だけど、不思議な石組み!

平左衛門丸

【左】平左衛門丸には、宇土櫓が立つ♪
【真ん中&右】宇土櫓の横の櫓。右は、頬当御門付近から見上げて。高っ!

宇土櫓の東側の石垣 // 井戸

加藤清正は、幾多の実戦の経験から籠城の際に備えて、城内に120余りの井戸を掘ったと云われており、清正の周到な注意(配慮)のほどを伺うことができる。 この井戸もその中の1つで、水面までの深さが36mある。このほかに城内には17の井戸が現存している。(標柱より)

宇土櫓

【左】今回は逆光だったので、前回のを。(2004/8/12撮影)

熊本城内に残る唯一の多層櫓で、外観は三層、内部は5階に地下を備えている。 古くから小西行長の宇土城天守を移築した物と伝えられ、宇土櫓の呼び名の起こりとされた。 しかし、解体修理の調査等から熊本城内で創建された櫓である事が明らかとなった。 木材は主に松を使い、他にツガ・クス・クリ等も使用している。黒光りした手斧痕の残る柱には、歴史の重みが実感できる。 屋根瓦は全部で4万6千枚にも達し、その中には400年の歳月に耐えた加藤家の桔梗紋を持つ瓦も残っている。 明治10年(1877)2月19日の城内火災では、折からの強い西風で風上に位置した事から、幸運にも難を逃れた。 昭和60年から5年がかりで修理を行い、平成元年10月から一般公開している。(熊本市の案内板より)

本丸へ

【左】天守を見つつ、本丸方面に、右折れ。写真は、振り返って。
【真ん中】左折れ、右側に闇り御門。高石垣の間から本丸御殿がちらり。
【右】石垣の屈曲が滑らか〜!

【左】闇り御門から振り返り。
【右】本丸から。

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