冠木門が立ち、左に平御櫓が聳える。門を入って右折れで、竹の丸。
竹の丸の東の虎口に位置し、本丸の南側に設けられた最前線の門である。 虎口の間の門構えが、柵の様に隙間をあけて造られていたので、須戸口門と呼ばれた。 この虎口は戦闘用に設けられたもので、平常時に出入する所ではなかった。(標柱より)
平御櫓は、長塀の防御線を1段高い位置から援護する役割や、 須戸口門から侵入した敵を、東竹の丸との連係で挟み撃ちする為の櫓であった。 櫓に登る石段は、敵が須戸口門を突破した時に、この石段を崩して侵入を防ぎ、 敵中でも孤立した拠点として最後まで戦う為に作られた櫓であったと考えられる。(標柱より)
【左上】左が北東の虎口で、右側が平御櫓の石垣。間を進むと、須戸口門。
【右上】敵の侵入を防ぐ為に、崩す石段。
【左&右下】須戸口門横から。石落しが目立つ。
【左下】東竹の丸の下(東側)から竹の丸の北東の虎口へ向かって、左側。
【下真ん中】長塀通りを歩き、坪井川を挟んで平御櫓を。こちらにも石落しが。
東竹の丸の下(東側)を南へ向かい虎口へ。
左側に見える平御櫓(平御櫓で紹介)が、同じ敷地に立っているのかと思った(^^;)
【左&真ん中】右折れ、左折れで竹の丸。
【右】竹の丸から振り返って。虎口右側の石垣から左折れで、須戸口門へ。
肥後菊、肥後椿、肥後山茶花、肥後花菖蒲、肥後朝顔、 肥後芍薬の6つの花を肥後六花と呼ぶのだそう。
加藤清正は籠城の際に備え、城内に120余の水量豊かな井戸を掘ったといわれている。 清正の周到な注意のほどが窺える。この井戸もその中の1つで、深さ約7mである。 この覆屋(おおいや)は市制100周年を記念し、明治4年頃、 撮影された古い写真を参考にして再建したものである。(熊本市の案内板より)
【左】竹の丸から飯田丸(左奥)と東竹の丸の下の石垣(手前)を。
【右】飯田丸の石垣。
竹の丸から見る石垣群は圧巻!その間から大天守も見えて格好いい(≧▽≦)
【左】竹の丸の南側の門。
【真ん中】竹の丸側から。
【右】桝形へ。左側が馬場櫓の石垣で、右折れになる。
【左】左上の写真を進んで、右折れになった所。
【真ん中】次は左折れ。
【右】桝形方面を、振り返って。
【左】櫨方門から西側(備前堀の南側)。広い!
【真ん中】櫨方門から左折れで下馬橋方面。
【右】馬具櫓の西側から。
【左】坪井川から。左が書物櫓、右奥が馬具櫓。右側が下馬橋。
【真ん中】左の写真をそばで。
【右】真ん中の内側。
【左】書物櫓跡の上にある城址碑。川側から見ないと分からない(笑)
【真ん中&右】馬具櫓跡。大きくて長い。
写真の川沿いの木の下に、礎石が残っているんだそう。後で知り、写真で確認…(^^;)※絵図の左下が下馬橋。
下馬橋は、花畑邸前から坪井川を渡って本丸に通じる橋である。 城内に入る時、ここから先は馬を降りる事になっていたため、この名が付いている。 明治35年、行幸橋、行幸坂が新設された時、この橋は撤去された。(案内板より・絵図も)
本丸への南からの入口は、下馬橋を渡って南坂(現行幸坂)を登る道であるが、その東側にあるこの水堀を備前堀と呼んでいる。 加藤家の時代に、前国主佐々成政の一門佐々備前がこの近くに住み、屋敷を備前屋敷と称したところから、 堀もそのように呼ばれたと伝えられている。佐々備前は加藤家侍帳で見ると千百石余で三番組の鉄砲組頭であった。 熊本城の東から南にかけては坪井川を内堀に見立てた為、水堀はここ1ヶ所だけであった。(熊本市の案内板より)
【右】気持ちよさそう〜(^^)