【左】左が飯田丸で、左上には飯田丸五階櫓が♪人が写っている所から北へ。本当に高い石垣だなぁ(^^)
【真ん中】右折れ、左折れで石段へ。
【右】真ん中の写真から、振り返って。正面の石垣の両側に排水溝が見られた。
【左】巨木の右側に石段が見えるから、写真だと勘違いしそうだけど、手前の石段を上がって、左折れになる。
【真ん中】斜めに振り返ると、右折れが分かる。
【右】真正面から振り返って。左の高い石垣は、五階櫓。
【左】次に、「広くなったなぁ…、飯田丸の石垣(正面)が高いなぁ。」と驚きつつ、右折れ。
どれだけぐねぐねなんだ…。
【真ん中&右】五階櫓(写真右側の石垣)の横を進んで、右折れ、左折れで石段へ。
高石垣って、圧迫感ある…(^^;)
【左】石段を上がり、ようやく飯田丸。
【真ん中】振り返って。
【右】石段を上がると、正面に二様の石垣、左側に飯田丸。
熊本城本丸南西は、もともと高い崖であったので、加藤清正はここを高石垣で築き上げた。 そこで竹の丸から飯田丸への通路も、標高差が大きいため、二重に折り曲げた虎口として設計された。 その二重の虎口の中央に設けられたのがこの石垣と櫓で、他の部分とつながっていないため、独立櫓とも呼ばれていた。(標柱より)
【左】竹の丸から飯田丸へ上がる途中。
【右】左の写真の付近で。ノミ跡の中途半端さが気になって(笑)
【左】飯田丸から竹の丸へ。正面の五階櫓を。人が小さいっ!
【右】東竹の丸から。真ん中が五階櫓で、奥が飯田丸。
【左】梅園になっている所も。
【真ん中】飯田丸五階櫓とクスノキ♪
【右】竹の丸から石垣を見上げて。
【左&右】備前堀から。堀と一緒に♪凄く格好いいな!
熊本城にはかつて大小天守閣をはじめ、櫓49、櫓門18、城門29があり、 特に五階櫓は、築城当時6棟を数えたと云われている。 飯田丸五階櫓は、加藤清正の重臣の1人である飯田覚兵衛が預かっていた曲輪にあることから、この名が付いた。 外観三層内部五階建ての櫓で、延べ床面積503u、石垣からの高さ14.3mで天守級の規模を誇る。 熊本城復元整備計画により、古写真などを基に平成17年3月復元完成している。(熊本市の案内板より)
【左】飯田丸から。
【右】竹の丸から。石垣が高い!!
【左】竹の丸から。こうやってみると凄くシュッとしていて、高石垣を実感する。
【右】奉行丸から見ると、全貌が見えて、格好いい〜(^w^)
【左】備前堀北側から桝形へ。
【真ん中】バリケードが門のよう(笑)
【右】飯田丸から。門から右折れで、飯田丸へ。
【左】飯田丸から。門から右折れで、飯田丸へ。
【右】左の写真の左側の石垣。この左奥に、百間櫓跡やクスノキがある。
【左】車がとまっている石垣上。
【真ん中&右】百間櫓跡付近のクスノキで、推定樹齢が800年!!パワーを貰った♪
■熊本城の石垣…石材は、熊本市西部の山々から切り出され、陸路又は水路を使って運ばれた。 その頃は、石切の技術が今日の様に進んでいなかった為、石の目を見て切りだしてはいるものの、 当時の石工の技術では、正方形や矩形の石を切り出すことは容易でなかった。 そこで、ふぞろいの石を積み上げながら、その間に込石を入れて仕上げていくと言う独特の工法が取られた。 勿論、奥行きの長い石を用い、奥で石の面が重なって崩れない様に考えられているこの形式の「乱れ積」は、 加藤清正と飯田覚兵衛・三宅角左衛門の指導のもとに穴太衆という技術者達が石垣作りを担当した。(熊本市の案内板より)
左の急勾配が細川時代、右の緩やかな方が清正時代の石垣。凄すぎる(@@)
【左】素晴らしい二様の石垣から続く高石垣を見つつ本丸方面へ。
【真ん中】ここからも素敵♪
【右】左折れ、右折れに。
江戸時代以前には、同盟や服従等の誓約の証として、 妻子等を人質として差し出したり、預かったりするしきたりがあった。 「御城内御絵図」によると、熊本城内にも人質を置く為の建物がここにあったとおもわれる。(標柱より)
【左】次に、左折れで礎石を見つつ。
【真ん中】右折れで石段へ。写真は振り返って。礎石がチラッと見える(^^)
【右】石段を上がると、平左衛門丸で、左の地図石から上がると数寄屋丸。
写真は、数寄屋丸の地図石から石段を。