【上田城 その1】

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長野県 上田城 ながのけん うえだじょう
■上田城(別名=尼ヶ淵城)=無料
■櫓・上田市立博物館・山本鼎記念館=共通250円
入館時間=8時半〜17時(入館は14時半)
休館日=水曜・祝日の翌日・年末年始・無休月あり
駐車場=無料駐車場        (2009.9.21現在)
住所=上田市二の丸3番地3
この時は、上信越自動車道 上田菅平I.Cから 国道144号を右へ。住吉交差点を国道18号バイパスへ右折。 結構走って、新田交差点を左折。ずっと進んで、国道18号へ右折。 少し先の上田城跡公園入口交差点を左折。 大手1.2丁目信号付近の駐車場(上田市民会館側)へ。満車の場合、 少し進んで、右側の細道(高砂殿の所)を右折し(カーブなので注意)、右折。 少しして右に駐車場(尼ヶ淵側)。 細道を右折出来ない場合、天神2丁目信号を右折。

上田城 (小さい写真をクリック→拡大)
天正11年(1583)真田昌幸公が築城した平城。上田城は2度にわたって 徳川軍の攻撃を守り抜いた戦国の名城。天正13年(1585) 徳川軍8千の大軍を真田勢2千余りで迎え撃ち、奇襲策戦で徳川軍を討ち破った。 二度目は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦へ向かう徳川秀忠軍を足止めさせ、 そのため秀忠軍が関ヶ原の合戦に間にあわなかった事は有名。 真田家は、関ヶ原の合戦で親子が分かれて東西両軍に参加。 昌幸の次男、幸村は大坂冬・夏の陣で徳川軍に命がけで挑み苦汁をなめた事によって、 「真田、日本一の兵(つわもの)」といわれた。 その後、徳川軍に味方した長男、信之が松代に移封され、上田を後にした。 真田氏の後には、仙石氏が小諸から移り城を大改修、(真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破却され、 現存する隅櫓や石垣は、寛永3〜5年(1626〜28)にかけて、 仙石忠政によって新たに築き直された。) 城下町づくりと北国街道の宿場町としての整備に力をいれ、現在の上田の町の基本を作った。 仙石氏の後、近世後半には松平氏の居城となり、 明治まで上田の産業と文化発展に貢献した。 今は本丸・二の丸にあたる所が城跡として公園になっており、隅櫓や石垣・土塁が残る。 仙石忠政が再築の時には(忠政の病死により中絶したが)本丸に天守閣は建てられず、櫓門2基、二層隅櫓7基が あった。現存する3基の隅櫓のうち、本丸西虎口の西櫓は、寛永期の建造当初からのものだが、他は 明治初期に民間に売られ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買い戻し、昭和18〜24年にかけて 現在の場所に復元したもの。本丸東虎口櫓門と袖塀は、平成6年に復元。 (上田市教育委員会の案内板より)
尼ヶ淵
(左)南櫓付近から。前列・右から2番目が愛車(笑) (真ん中)真田神社付近の石垣。 (右)夜も車が並ぶ。
当時、千曲川の流れがあって、尼ヶ淵は天然の要害だった。 (左=2005.4.23、真ん中=2009.9.21、右=前日撮影。)
西櫓と南櫓を一緒に。バスケットコートでは、 日夜、3on3が行われていた。 (左=2005.4.23、右=2009.9.20撮影)
尼ヶ淵から上がって
(左&真ん中)駐車場から西櫓下の道を上がり…。 (右)左側の石垣を。(右=2005.4.23、他=2009.9.21撮影。)
西櫓
尼ヶ淵(駐車場付近)から。手前の木が無くなってスッキリ。 夜もいいなぁ♪ (左=2009.9.21、右=2009.9.20撮影)
 尼ヶ淵に臨む段丘の上に立つ
 上田城本丸隅櫓。壁の下部は、
 板ばり(下見板)になっているが、
 これは初期城郭建築の様式。
 寒冷地に多く見られる形式でも
 ある。窓は突き上げ戸の「武者窓」。
 射撃用の小窓「矢狭間・鉄砲狭間」
 も設けられている。
 (右)桜と♪ (2005.4.23撮影)
西虎口&桝形
(左)西櫓と桝形(正面)。 (真ん中)左の写真の正面石垣を。 (右)虎口から桝形と西櫓を。チラッ。(2005.4.23撮影)
本丸西側の堀
西櫓付近から。とにかくきれいだった!堀にたまって いる花びらでさえも、芸術に感じる(^^) (2005.4.23撮影)
本丸 本丸南西櫓跡
(左)こ、こんな所にって場所に(笑)  (真ん中)花見時期だけに多い。  (右)西虎口から近い。(2005.4.23撮影)
本丸北西隅櫓跡&礎石
本丸北西部の隅櫓跡は、二の丸西虎口の正面に位置する。 平成6年度に発掘調査が行われ、土塁の上に直接 建てられていた建物であった事が確認された。現在、地上に露出している 礎石は、隅櫓の中央に建てられた芯柱をすえるためのもので、円形の柱座が 彫られており、芯柱は直径約50cmの丸太材の柱であった事がわかる。 この礎石の周囲には約2mの範囲で栗石が残っており、本来の位置を 留めている事がわかった。また、建物の基礎材をすえる為の 栗石列や小礎石も検出され、この隅櫓が現存する西櫓などと同じく 南北5間、東西4間の規模を有する建物であった事が確認された。
■金箔瓦… 平成3年度に行われた本丸堀の浚渫工事の際に、堀底より大量の屋根瓦が 出土した。これらの瓦には、五七桐紋や菊花紋軒丸瓦等豊臣氏に 縁の深い文様を持つ瓦が含まれており、豊臣秀吉に臣従してた真田昌幸によって 建てられた建物に使用されていた瓦である事がわかった。真田氏時代の上田城の 様子は、絵図等の資料が乏しく殆どわかっていないが、城内の各所から出土 する真田氏時代特有の瓦によって、瓦を葺いた建物が城内に多数存在していた事が 推測される。中でも北西隅櫓跡の西側の堀底からは金箔の付着した鯱の 破片が数点出土し、真田氏時代にはこの付近に黄金色輝く鯱鉾載った建物が 存在していた事が推測される。 (上田市教育委員会の案内板より)
 どの堀を見ても素敵!(2005.4.23撮影)
本丸北東隅櫓跡
本丸の北東部には2棟の隅櫓が建てられていた事が江戸時代の様々な 絵図によって知られていたが、平成6年度と7年度に発掘調査が行われ、 正確な位置や大きさが確認された。隅櫓は石垣を築かずに土塁の上に 直接建てられていた事がわかった。また、隅櫓の規模は現存する西櫓等と 同じく桁行5間、梁間4間と推定され、北側の隅櫓は東西方向に、南側の 隅櫓は南北方向に棟の方向が向いていた事が確認された。現在、隅櫓の 中心に建てられていた芯柱の礎石がそれぞれ残っているが、いずれも明治 時代以降に動かされ、本来の位置とは少しずれている。 (上田市教育委員会の案内板より)
本丸北東の土塁
■鬼門除け・本丸土塁の隅おとし(上田城の重要な特色の1つ)…
本丸と二の丸の土塁と堀は、北東の隅が直角ではなく、 内側に折れて切り欠きが設けられている。北東(丑寅)の 方角は鬼門と呼ばれ、古来より災いや物の怪が進入して くる方角と考えられてきた。北東の隅に切り欠きを 設けて鬼門を封じる風習は京都御所の土塀など にもみられ、真田昌幸による縄張りの遺構と考えられている。 昌幸はさらに城下の北東の地(上田市新田)に八幡社を建立し、 上田城と城下町を鎮護している。 (上田市教育委員会の案内板より)
   (左)本当に欠けてる〜(@@)  (右)本丸側から。(2005.4.23撮影)

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