大手門跡 | ||
---|---|---|
商工会議所の前の桝形の位置に大手門があり、 この前には幅32m、南北の長さ200m余の堀があって、 その内側が三の丸だった。しかし、 門の桝形を構成する石垣と、その前南北に 堀があっただけで、城門は造られていなかったと いわれている。 (案内板より・絵図も) 国道141号から西へ。 土橋や堀跡付近(真ん中の写真)を過ぎ、 その先の屈曲した(右の写真)大手門跡&桝形へ。 | ||
国道141号から西へ向かうと、右側に大手門公園(=黄色の印)で、
説明板があったけど、専用の駐車場は無し。 上田藩主館も見学する為、向かい側の上田商工会議所会館の 有料駐車場を利用。(使用時間によっては無料。) |
||
大手町 | ||
天正11年(1583)上田城築城の後、 大手口から二の丸に至る道筋に 造った武家屋敷の町で新参町と 呼ばれていたが、仙石氏・松平氏の 時代には上級武士の屋敷が並んで いた。戦後になって大手町と改名 した。この歩道は、真田親子が 九度山に流された折、内職で織った といわれる真田紐をデザインした。 (案内板より) | ||
観光会館 | 二の丸通り | |
観光会館の中は、お土産がいっぱい!ショーケースには十勇士! 上田駅にいた真田幸村と同じ像が飾られていた。 | ||
おまけ・上田市の街灯 | ||
(左&真ん中)上田大橋の街灯には六文銭が♪ (右)国道143号の上田市御所の街灯には渡し舟が。 | ||
・・・真田氏&真田十勇士・他の人物紹介巡り・・・
観光会館から商工会議所会館までの通りに、
歩道にポツポツ置かれた人物紹介。
こういうものを見ると、コンプリートしたくなって
しまうわけで…(^w^) (2009.9.21)
(人物紹介のイラストは、城内や駐車場に掲げられた幟と
同じなので、よりきれいなものを紹介。)
真田幸隆&昌幸&直江兼続 | |||
---|---|---|---|
■幸隆…信州の名族・海野一族の流れを組むと言われている。
武田信玄のもとで活躍したが、特に信玄が落とす事が
出来なかった砥石城を知略により落城させた事は有名。
真田一族繁栄の礎を築いた人物。 ■昌幸…幸隆の三男。戦国大名として力を蓄え、 上田城を築城した。父譲りの知略で徳川の大軍を 二度にわたり撃退した事は特に有名。 第二次上田合戦の後、息子・幸村とともに高野山・九度山 (和歌山県)に流され、その地で没した。 ■兼続… 上杉景勝の重臣として活躍した。 信義に厚く、才知に溢れた人物であり、豊臣秀吉が 「天下の仕置きを任せられる男なり」と評したとも 言われている。 |
|||
筧十蔵 | 望月六郎 | 海野六郎 | 穴山小助 |
鉄砲の名手。大阪冬の陣・夏の陣では 鉄砲隊を率いて活躍。徳川家康を狙撃した。 |
滋野三家(海野・望月・禰津)の流れをくむ。 早くから真田昌幸・幸村親子に従い、幸村の側近として 智謀を振るった。 (深謀遠慮) |
真田十勇士のまとめ役。 知略で徳川家康を悩ました。滋野一族である 海野氏の一門。 |
頭がよく槍の達人。幸村とよく似ていて、 大阪夏の陣では影武者となり、 身代わりとして討ち死にした。 |
由利鎌之助 | 三好伊三入道 | 三好清海入道 | 禰津甚八 |
鎌十字槍の名手。穴山小助と一騎打ちで 生け捕りにされ、以来、幸村に仕えた。 |
清海入道の弟。やはり大男で怪力の持ち主。大阪夏の陣では、 大奮闘した。 |
六尺豊かな大男、怪力の持ち主。筋金を打った太い樫の棒を 振り回して戦った。 |
滋野一族の名門の出。幸村の影武者となって 大阪夏の陣で討ち死にした。 |
霧隠才蔵 | 猿飛佐助 | ||
伊賀流忍者、あっと驚く忍術を使う。 上田の太郎山で霧隠れの術を、神川の千古の淵で 水遁の術を見につけたといわれている。 |
甲賀流忍術の名人。真田十勇士の中では筆頭格。 大泥棒・石川五右衛門と術を競った事もある。 角間渓谷の絶壁は、佐助が忍術の修行を したところと伝えられる。 |
||
真田幸村 | 六文銭の幟 | ||
真田昌幸の次男。 第二次上田合戦で父・昌幸と徳川軍を打ち破った。 その後、徳川家康により高野山・九度山(和歌山県)に 流された。大阪冬・夏の陣において、家康を相手に 大活躍したが、幸村はここで討ち死にした。 その活躍は、「真田、日本一の兵」と 絶賛された。後に、この活躍から幸村と真田十勇士が活躍する 物語が作られた。(一意専心) |
【 長野のもくじ 】 | ■ 上へ ■ |