トロとまったり・tripのページ(島原城 その6)

時鐘楼

島原藩主・松平忠房公は、「民に時刻を知らしめ、これを励行せしむることは政治の要道である」として、 延宝3年(1675)豊後高田の治工・藤原正次に巨鐘を鋳造させ、この地に鐘楼を建てて、時間毎に撞き鳴らし時刻を知らせていた。 以来、270年間、島原の人達にて「おかみの鐘」として親しまれ、生活に溶け込んでいた時鐘も、太平洋戦争下の昭和19年、長い歴史の余韻を残したまま供出された。 昭和55年、志ある人達の希いと浄財をもとに復元されたが、その銘文紋様は、日本彫塑界最高峰・北村西望先生の労作によるものである。(案内板より)

西虎口門跡 // 武家屋敷へ

【左&真ん中】西虎口門跡。
【左】時鐘楼から西へ進むと標柱が分かりやすい。
【真ん中】逆から。見えなくなるのだ(^^;)
【右】武家屋敷へ。

武家屋敷跡

【左】着物女性の撮影会が終了し、帰る後ろ姿を。
【右】武家屋敷が、ビッチリ(@@)!

この付近一帯を鉄砲丁といい、町筋が7つ、上から上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建と碁盤の目のようにできている。 ここには扶持取り70石以下の徒士(かち)屋敷その他が、柏野新屋敷を加えて690戸があった。 島原城ができた当時から、1軒1軒の屋敷には境界の塀が無く、隣家の奥まで丸見えで、鉄砲の筒の中を覗いたようだというので、鉄砲丁という名称が起こったといわれている。 鉄砲組すなわち歩兵の住居地帯であったからでもある。しかし、安永4年(1775)藩主の命により、今日見るような石垣が各戸に築かれた。 町筋の中央を流れる清水は、昔、飲料水として使用されていたものである。(島原市の案内板より)

鳥田邸

鳥田家は、藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封にともなって三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9年(1669)、ここ島原に入った。 歴代地方代官・郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で7石2人扶持を受け、材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職についた。 この辺り一帯は中・下級武士の屋敷で、一戸当たりの敷地は3畝(90坪)ずつに区切られ、家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。 道路の中央に流れる清流は、往時の生活用水路である。(案内板より)

萱葺き屋根が素敵♪室内に人形がいると、ドキッとする小心者(笑)

篠塚邸

この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚といい、代々順右衛門を称し、 祖先は三河(愛知県)深溝であるが、寛文9年(1669)、 松平主殿頭忠房が、丹波福知山5万石から7万石島原城主として移された時に従ってきて、 明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、 主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。屋敷坪数はこの辺り全て3畝(90坪)である。(案内板より)

【右】左側の門が山本邸で、少し先の右側に、篠塚邸。 現代の建物が、殆ど見えないのがいい感じ♪

山本邸

山本家の初代左五左衛門は、忠房公の先代三河(愛知県)の吉田城主忠利公時代から家臣となり、寛永2年(1749)、5代忠祇公の宇都宮移封、 安永3年(1774)、6代忠恕公の島原への所管の所替に際して随行し、その後幕末まで前後13代の城主に仕えた。 山本家は城主からの信任が厚く、明治以後は悟郎氏秀武氏と合わせ10代続いている。 5代茂親氏は寛政2年(1790)に一刀流の免許、文化元年(1804)には荻野流鉄砲術師範、文化8年(1811)大銃術の免許皆伝を得て、代々重職を務めた。 17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和公から特別に許されたものである。(案内板より)

中学校
榊原郷土史料館
クランクな道

【左】中学校にも、冠木門が。
【真ん中】平成元年に、民間の史料館として開館したそう。
【右】昔の名残りなのかな?

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