トロとまったり・tripのページ(高松城 その2)

桜御門跡

旧文化財保護法により国宝(現在の重要文化財クラス)に指定されたが、昭和20年の高松空襲により焼失。 石垣や礎石に焼けた跡が見られる。(案内板より)

【左】桜の馬場側から。
【真ん中】左の写真の正面の石垣。
【右】桜の馬場方面。

焼けた赤黒い石が物々しく、使われた石もマチマチ、それがまた迫力がある。
【左】桜の馬場側から左側の石垣。
【真ん中】桜の馬場側から右側の石垣。
【右】桜御門跡の横の石垣。

竜櫓跡

【左】(パノラマっぽく加工)県民ホールの東の丸の石垣を見た後、駐車場へ戻る時に、通用門付近から写した旭橋方面。 写真右側の石垣の先が、竜櫓跡。

陳列館(三の丸)

高松城や歴代藩主などに関する文化財や資料、模型等展示。 無料が嬉しい(^^)もっと写したけどブレちゃってて…。

披雲閣(ひうんかく)(三の丸)

松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約2倍)があり、藩の政庁及び藩主の住居として使われていたが、明治5年(1872)に老朽化のため取り壊された。 その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平頼壽氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて、現在の披雲閣が大正6年(1917)に完成した。 建坪は約2千u(600坪余)だったが、一部取り壊しや移築により、現在は約1887u(570坪余)である。 この豪壮な和風建物には、142畳敷の大書院を始め、槙の間・蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になられたこともある。 昭和29年(1954)に城跡ともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれている。(案内板より)

内苑御庭(三の丸)

大きな飛石にビックリ!朝方の雨でぬかるんだ道を歩かなくていいから、助かった(笑)

高松城は別名玉藻城とも呼ばれているが、これは万葉集で柿本人磨が詠んだ「玉藻よし」という讃岐国の枕詞をとって、 このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれている。 今は、その城跡の一部の主要部分のみが玉藻公園となってその名を伝えている。 生駒親正が築城した当時は、このあたりには壮大なお庭が広がっていたといわれる。 松平氏の時代になって第2代藩主頼常公の頃に、藩主の住居であり政庁である披雲閣と呼ばれる御殿が建てられた。 現在の庭は、藩政時代のものをもとに大正5年(1916)頃に作られた枯山水の庭である。 庭園内には空川が北東から南西に流れ、3つの築山が連なり、松を中心にウバメガシ、サツキ、梅、蘇鉄などが茂っている。 木々の緑が櫓の白壁に映え、大石灯ろうが木々の間から見える風情は昔の大名の優美な生活を偲ばせる。 また、築山のほとりの石組みは、山石・川石・沢石などをうまく組み合わせ、石の稜線を生かして三段にも組まれている。 他にも、高さ2m、重量11t余りといわれる大手水鉢や大きな飛石、1つの石から削りだされた精巧な石橋などがあり、栗林公園とは異なった風情で、 見る人に尽きせぬ興味を呼び起こす。また、苑内は大正11年(1922)に、当時、摂政だった昭和天皇陛下がお手植えになられた松があり、その隣には当時陛下と婚約中だった良子皇后様が、 大正12年(1923)にお手植えになられた松がある。(案内板より)

内苑御庭を出て北側の石垣

【左】内苑御庭を出て北側に、ピョコピョコと何ヶ所か、違う大きさの石垣が、出っ張っていて面白い(^^)
【真ん中】石垣と月見櫓。 【右】振り返って…。

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