トロとまったり・tripのページ(高松城 その3)

月見櫓付近のナゾの建物

武(ぶの)櫓跡を見学していると、月見櫓の左側に気になるナゾの物体が…。
【左】武(ぶの)櫓跡側から月見櫓方面に向いて、左側を見ると、道路を挟んで櫓があった!
【右】(切り取り加工)遠くから見ると、まるで本物みたいでいい感じ! 左側がナゾの物体、右側が月見櫓。

北の丸 月見櫓(続櫓)、水手御門、渡櫓

高松城(玉藻城ともいう)を築城した生駒氏の治世は4代54年間続いたが、寛永17年(1460)に出羽の国矢島1万石に移封された。 その後、寛永19年(1642)松平頼重公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、 明治2年(1869)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城の1つに数えられいる。 月見櫓は、松平氏入封以後、新たに海面を埋め立てて造られた郭の隅櫓として、延宝4年(1676)2代頼常公の時代に、完成されたものである。 ことに渡櫓は、生駒氏築城による海手門を改修して建てられた。 かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、 この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれる。 月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけて組み立てていることや、 外壁に装飾的な黒い長押(なげし)を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず、一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられる。 これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954)1月に高松市が譲り受け、 翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1,700万円を費やして同32年(1957)3月に竣工した。(案内板より)

【2枚】木で隠れ気味だけど、左より月見櫓(続櫓)、水手御門、渡櫓。
【左】武(ぶの)櫓跡側から月見櫓方面を。写真左側の道路(写っていない)にナゾの櫓が立っている。
【右】近付いて。

北の丸 月見櫓&続櫓

【左】北東側から。格好いい♪
【右】北西側から。松が気になるな…。

【左】北の丸側から。
【右】北西側からのライトアップ。

渡櫓&水手御門

【左】奥が月見櫓、次に続櫓、その手前に隠れて水手御門。

■高松藩松平家の泳法…「讃州、さぬきの高松様は城が見えます波の上」と歌われているように、 お城の北側の石垣まで潮が満ちていた。5代藩主松平頼恭公は中興の祖として名君の誉れ高く、 ご幼少の頃より武芸全般に秀でられ、特に水泳を好まれた。 在国の年には小姓たちを従えて、水手御門より西(現在の西門北側)まで、 往復二百間(約360m)を左下の片熨斗(水任流の左片熨斗)で泳がれたと記録にある。(案内板より)

【左】渡櫓の裏側。 【真ん中】渡櫓の表側。 【右】水手御門。

北の丸跡

【左】月見櫓から鹿櫓跡方面へ。
【真ん中】渡櫓や水手御門、月見櫓も北の丸だけど、こういう場所もあったので。
【右】北側からで、写真右側は月見櫓。

北の丸・鹿櫓跡

【右】鹿櫓跡から南側。
近くにいた観光客のお言葉「何も無いじゃん。」いえいえ、 鹿櫓跡にある壁で見えないだけで、向こうの正面の県民ホールの下に、ビヨ〜ンと続く石垣があった! これを見たら何も無いなんて思わないでしょ〜(^^)

【2枚】北側から鹿櫓跡の石垣を。
【右】左奥に、東の丸石垣(艮櫓跡への石垣)が、香川県県民ホールの建物の下へ続いている。

新曲輪

【左】新曲輪。見えるのは月見櫓。
【真ん中】門跡かな?
【右】県民ホールの南側の道から西へ続く道の先の通用門。入って右側が新曲輪。

東の丸・石垣(艮櫓跡の西側の石垣)

【左】鹿櫓跡付近から香川県県民ホールの建物の下へ続く石垣♪石垣の奥が東の丸。

寛永19年(1642)に高松藩主となった松平頼重公は、 寛文年間(1661〜1672)から延宝年間(1673〜1680)にかけて高松城跡を北方及び東方に拡張した。 この石垣はその時東に拡張されて出来た東の丸石垣の一部(北縁部・東縁部)である。 (香川県教育委員会の案内板より)

【左】西側から艮櫓跡への石垣。
【右】艮櫓跡から鹿櫓跡方面。香川県県民ホールが配慮して作られているのが分かる(^^)

東の丸・艮櫓跡

【左】艮櫓跡と南に続く石垣。【真ん中】北面。【右】東面。

東の丸・石垣(艮櫓跡の南側の石垣)

【左】艮櫓跡方面。南に石垣が続いているとは思わなかったので、ビックリした!
【右】内側から。それにしても、城跡に対しての配慮の気持ちが嬉しい(^^)

発掘された石積み突堤

松平頼重は、城下に上水道を敷設し、天守閣を改築するなどして、城と城下町の整備に努めたが、寛文11年(1671)からは、 城の東側の侍屋敷や町屋のあったところに「東の丸」と呼ばれる郭を築造した。 東の丸の北東の隅には三重三層の艮櫓が建てられたが、現在は桜馬場の南東部にある太鼓櫓跡に移築復元されている。 現在地は、東の丸の北東にあたり、県民ホール小ホールの建設工事の前に実施された発掘調査によって、 江戸時代の絵図に描かれたとおり、海に突き出した石積みの突堤が発見された。(案内板より)

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