トロとまったり・tripのページ(久留米城 その6)

二ノ丸跡

四方を濠で囲まれた台形状の郭で藩主が生活した二ノ丸御殿があった。(標柱より)

【左】本丸南側の土橋側から二ノ丸を。
【右】(切り取り加工)二ノ丸側から本丸方面。

【左】本丸の土橋から南下した道の植え込みに「久留米城二ノ丸跡」の石碑(両面に記載)がある。
【真ん中】手前が二ノ丸、奥方面が三ノ丸で、その間が水堀跡。
【右】おまけ。巨大な碑が気になって近寄ってみたら、篠山神社の碑だった(^^;)

三ノ丸跡

【左】三ノ丸跡。写真は、ブリヂストン通りを北東方面で(篠山城南信号方面へ)、左側の歩道を奥へ進んで、信号の所の横断歩道の手前の植え込みに三ノ丸跡の碑が立つ。
【真ん中】左の写真と同じ篠山城南信号で、横断歩道を渡って振り返った。
【右】「久留米城三ノ丸跡」の碑(両面に記載)。

三ノ丸跡・水堀跡

【左】三ノ丸跡。篠山城南信号から南を向いたところ。
【真ん中】左の写真の白い建物の横の道を奥へ進んだ所で、この辺りも三ノ丸。
【右】真ん中の写真の突き当りで、ここから道はクランクに。土塁(跡)を挟んで左から右に水堀があった。(※一方通行なので注意。今回は徒歩で。)

【左】右上の写真から左折した所。左が三ノ丸、右の民家沿いには土塁跡で、その奥が水堀だったそう。
【真ん中】(※土塁跡と水堀跡の位置はおおまかです。道路を挟んで左側も。)その後、右折れに。
【右】右折れ後、南を向いて、土塁跡と水堀跡を。

外郭と三ノ丸の間の濠跡で、遊歩道の両側に往時の土手の痕跡が残る。(標柱より)

【左】振り返って。写真右側が三ノ丸。
【真ん中】右上の写真の左側の水堀跡。
【右】真ん中の写真の入口に、久留米城三ノ丸濠跡の碑が立つ。

旧三島家長屋門・外郭

久留米城内の外郭にあった300石の知行を持つ梶村家によって建設された長屋門である。 明治30年代から屋敷地と建物が三島家の所有となり、平成13年5月に久留米市に建物が寄付されるまで管理されてきたことから、 旧三島家長屋門を指定名称としている。 木造一層、入母屋造り、桟瓦葺の長屋門で、桁行六間、梁行二間の規模を持つ。 門の両側に部屋がつく。小屋組みは和小屋で二重梁構造である。 建築年代は不明であったが、今回の解体移築過程で墨書が発見され、天保11年(1840)の建立で、 棟梁は藩の御手大工であった三牧市左衛門であることが判明した。 平成13年度事業で通町の三島家の敷地から現在地へ移築復元されたものである。 久留米城下町に残る武家屋敷の家構の1つであり、江戸時代の久留米の歴史を語る貴重な建造物である。 (久留米市教育委員会の案内板より)

久留米城は本丸、二ノ丸、三ノ丸、外郭からなる大規模な城だった。 篠山校区はこの外郭の大半と城外の町人達が住む城下町からなる。 外郭は上級の侍の屋敷地だった。篠山小学校・城南中学校はその中に入る。 町人達の町としては両替町、米屋町、細工町、呉服町、魚屋町等の町が広がっていた。(案内板より)

【左】篠山小学校にある。門の前に自転車が…(^^;)
【真ん中】ササッと入って、内側を撮りたかったなぁ(笑)
【右】篠山小学校、門の南側の道。外郭だけど面影は無い…。

大手門跡

【左】明善高の東側を南下、写真左側付近が大手門跡だったのかな?
【真ん中】南下。建物の間に大きな鳥居が!
【右】振り返って。

六ツ門(六ツ門町)

【左&真ん中】櫛原バイパスを背後に、国道264号、国道209号との交差点の「六ツ門」信号。
【右】ここで見かけた「櫛原バイパス」の案内。カッパの顔が何とも言えない(^^;)

▲上へ戻る