排水が直接石垣に当たらないように、石垣の上部から突き出して造られ、下には水受けの敷石をして地面を保護している。 石樋は、本丸や三の丸などを含め、現在16ヶ所確認されているが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が1番大きく造られている。(案内板より)
山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ。通常千代といわれているが、これを裏付ける確かな資料はない。 出身についても通説では、近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。 幼い頃父を失い、17,8歳の頃、一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。 中でも、結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それえが織田信長の目にとまって、出世の糸口になった逸話は、広く知られている。 また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒(よ)りこめた手紙で、関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定付けさせたことが、一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。 手芸や文筆にも優れ、賢夫人として知られている。元和3年(1617)12月14日、京都で没、61歳。法号見性院。この銅像は、昭和40年(1965)2月26日に除幕された。(案内板より)
かつて、杉の巨木がたくさんあったのでこの名がある。「井戸の段」とも呼ばれた。 将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際には、藩主自らこの井戸段に出向いたという。 また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきた。 北の部分には塗師(ぬし)部屋があり、また長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵があった。 二の丸へ上る道の南側に残る井戸は、深さ約18mあり、記録にある城内14の井戸のうちで最も水質が良かったので、 毎日午前10時、正午、午後4時の3階この井戸水を汲み、藩主の住む二の丸御殿に運んだという。 この段を北に回った部分には、重要書類などを保管する証文蔵が離れて建てられており、南には鐘撞堂等のある太鼓丸があった。 城内の林には、タヌキ・ウサギ・イノシシ・アナグマ等の動物がいたと記録されている。(案内板より)
【左】井戸方面を振り返って。
【真ん中】長崎蔵方面。
【右】楠正興尚徳の碑。こういった碑が多い(^^;)
残念なことに、発掘&解体修復中…。
仕方が無いけれど、昔のままの姿を写したかったなぁ〜(^^;)
【左】(切り取り加工)東から。
【左下】左上の写真の左端。
【右】左の写真を南から見たもの。
【左】木がちょっと…(^^;)
【真ん中】鉄門と反対方向は獅子の段。
【右】三の丸の南側。ここにも碑が。
この場所には、左右の高い石垣を跨いで、入母屋造り二階建ての門が設けられていた。 ここを入ると、二の丸から本丸に通じる重要な位置にあるため、石外は整然と築かれていて、 門の扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので、鉄門と称された。 小さな桝形を形作っている門の内側には番所があって、弓・鉄砲を持った番人と足軽が詰めていた。 右と正面の石垣の上には、矢狭間塀がめぐらされていて、門内に侵入した敵を、3方面から攻撃できるようになっていた。 左に曲がって石段を上がると、矢狭間塀のために、二の丸への道は見えず、むしろ詰門への石段が連続して見えるので、 自然と詰門の方向に導かれるように、巧妙に設計されていた。 石段は、18段あって「一八雁木」と呼ばれていたが、現在は16段になっている。 石段の中間から鉄門の二階に上がれるように設計されており、 その辺りの石には、切り出した時の楔(くさび)の跡がそのまま残っているものが見られる。(案内板より)
【左】表。【右】中から桝形。
【左】左上の写真から左に折れた所の上り口。
【右】右上の写真の左側の石垣。
解体修理中の石がゴロゴロ(^^)三の丸から見上げる天守は、2面見えるけど、木で隠れちゃうなぁ。
三の丸には、三の丸御殿、東北隅に丑寅櫓が建っていた。 二階建てで、唐破風や廻縁高覧が付けられた天守閣と同形式のもので、城内8つの櫓の中では、特異な外観をしていたという。(案内板より)
【左】石垣が、右の木と同化してしまった…。真ん中の石垣の向こうに見えるのが詰門。複雑になってるなぁ〜(^^;)