【左】下りて来た道を、振り返る。
【真ん中】左の写真の左側の本丸の石垣。
【右】獅子の段(梅の段)から見上げて、黒鉄門と本丸石垣を。
【右】西南の櫓跡。
■獅子の段(梅の段)…江戸時代には、「鹿の段」とも書かれ、射場や馬場があったという。 また、「西南櫓」「西櫓」「乾櫓」の3つの櫓が建っており、 厳重な警備がなされていたようである。明治7年(1874)、 高知城公園の開園を記念し梅林となり、現在は「梅の段」と呼ばれている。(案内板より)
【左】獅子の段(梅の段)から見上げて。左から廊下門と西多聞。
【右】獅子の段(梅の段)から見上げて。角度を変えて。石垣が素敵!
【左】獅子の段(梅の段)から二の丸。獅子の段(梅の段)を北へ向かうと…。
【真ん中】二の丸の乾櫓の素敵な石垣が見る事が出来る♪
トイレが入っちゃうけど…(^^;)
【右】獅子の段(梅の段)の乾櫓跡。
ここで、私達を凄く気になるらしい犬と出会った(笑)
飼い主さんが、犬の歩調に合わせるのが、微笑ましかったなぁ。
【左】獅子の段(梅の段)の西の櫓跡。
【右】獅子の段(梅の段)から西へ。
【右】プレートの矢印の上が復元石積みで、下が遺構石積みなんだとか。
御台所屋敷跡は、本丸西の獅子の段下に位置する丘陵部に造られた出丸状の曲輪である。
東から西に下る地形で、中ほどの斜面部で上段と下段に分かれている。
上段部では、中世(鎌倉〜戦国時代)の土師質土器、瓦質土器、銅銭などや近世(江戸時代)の焼塩壷、多量の瓦類が出土した。
大高坂山は、山内氏の築城以前にも、南北朝時代(1336〜1392)には、大高坂松王丸らの居城として利用され、天正16年(1588)には長宗我部元親が、
居城をここに移した経緯があり、出土遺物はそれぞれの時代に該当するものと思われる。
古絵図によると、御台所屋敷跡全体を削ぎ葺きの板塀が取り囲み、搦手門につながる忍道が見られる。
発掘調査により、忍道、塀や門の跡と思われる根石が発見され、下段の整地層では南側と石垣下から、石組みの排水溝が出土した。
斜面部からは、江戸時代後期のものと思われる石垣が発見された。石垣の北側は根石、南側は数段の石垣が残っている。
北と南では石の種類、工法に違いが見られ、それぞれの違いを考慮して石垣を復元している。(案内板より)
江戸時代初期、幕府よりの「御預人」である元豊前小倉城主毛利吉成が住居した。 吉成没後は、2代藩主忠義の娘・喜与姫(陸奥三春城主・松下長綱夫人)が住居したといわれている。(案内板より)
城跡西の玄関で、追手門の3分の2ぐらいの広さ。西の丸や御台所屋敷に続き、城内の主門の1つであった。 「西ノ口門」・「西大門」とも呼ばれる。(案内板より)
【左】右に写るのが二の丸。
【右】搦手門の石垣のすぐ横には、建物が…。
■致道館門…文久2年に藩校として創設され、
当初は文武館と呼ばれていた。(案内板より)
■御桜山跡…桜山は、御屋敷の庭園で、
涼風亭・和楽亭・花園亭等の東屋があった。(案内板より)
【右】写真に写るこの鴨は、顔を見ながらついて来くるから可愛かった(^^)
現在の県庁舎敷地が、御屋敷(表御殿)跡。国主の隠居屋敷があり、下屋敷と記されている絵図もある。 表御殿の他、中奥御殿など749坪の広大な建物であった。そして、堀を渡る石橋に、御屋敷に通じる御屋敷御門があった。 南門とも呼ばれる。(案内板より)
【左】県庁舎と門跡。
【真ん中】門跡を少し遠くから。
【右】堀で甲羅干しをしているカメ。気持ち良さそう〜(^^)
現在の丸の内緑地から県議会敷地。140m余りの馬場があった。 堀側は、高さ2.5m程の土手で囲んでいた。(案内板より)
【右】プカ〜と浮いているカメ。カメはどんな時も可愛いなぁ。
高知城 2008.5.2記
むか〜し来たことがあるんだけど、全く覚えていないので、初めてな気分で見学(^^) 天守他の建物群がたくさんあって、石垣がこんなに素敵だったとは(≧▽≦) それに、本丸には、建物群が色々と建っているから、こじんまりしてるのも改めて実感できたし、 本丸の建物群の外側と内側の色が違うとか、本丸御殿の欄間だとか、今だから色々面白く感じられたのかも(^^) ただ、三の丸の石垣が、発掘&修復中だったのが残念。 でも、今までの経過を紹介した、たくさんのパネルを読めたのは、嬉しかったなぁ(^^) 2時間もかけてのんびり見て回って、大満足の城跡見学ができた♪