おかやまけん つやまじょう
■津山城(別名=鶴山城)
■鶴山(かくざん)公園=210円
開園時間=8時40分〜19時(4月〜9月)
=8時40分〜17時(10〜3月)
※さくらまつり期間中は、時間が変更されます。
休園日=12月29日〜31日
駐車場=無料駐車場(津山観光センター)
=有料駐車場(近辺にあり)
2006/8/12現在
住所=津山市山下
この時は、中国自動車道 岡山、津山I.Cを下りて、国道53号を鶴山公園の看板に従って左折。
橋を渡って、少しして船頭町信号を市役所方面の県道394号へ右折。大手町交差点を右折、
少しすると左側に津山観光センター。その横奥に津山城への石段。
2番目の案内板をクリック→拡大。
津山城は、もと山城(山名氏の旧塁の跡)のあったこの鶴山の地に、清和源氏 八幡太郎義家の後裔の森忠政が、慶長9年(1604)「鶴山」を「津山」と改めて、城と城下町の建設を開始。
江戸城、駿府城普請、大坂の陣への出陣など多くの年月を費やしたが、元和2年(1616)に完成、足かけ13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城である。
忠政の後、2代長継、3代長武(初め長義)、4代長成と95年にわたって美作国を治めたが、元禄10年(1697)6月、長成の没後、その嗣子が無かったため、津山森藩は改易となった。
(その後、森家は2代藩主 長継の子の長直が、備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永3年(1706)播磨赤穂に移った。)
元禄10年(1697)の10月から翌年5月まで安芸広島城浅野綱長を城番としてこの城を守らせた。
元禄11年(1698)10万石の大名として新たに松平宣富(のぶとみ)が津山藩主となる。
宣富は、徳川家康の第二子結城(松平)秀康の曽孫で、越前家と呼ばれ、徳川氏一門中に重きをなしていた。 宣富の後、2代浅五郎、3代長煕(ながひろ)、4代長孝、5代康哉(やすちか)、 6代康乂(やすはる)、7代斉孝(なりたか)、8代斉民(なりたみ)、9代慶倫(よしとも)に至り、明治維新を迎え、明治4年(1871)廃藩となった。 松平氏の在城9代174年だった。(案内板より・絵図も)
【左】津山観光センターの駐車場を利用した。
【真ん中】センター入口にはカッパのゴンちゃんが「ハ〜イ♪」と出迎えてくれる(^^)
素敵な白壁に挟まれた石段を上がっていくと、目の前に三の丸の石垣が広がる(^^) これが、本当に素敵♪
平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかった。 石の重さは約2.3t、近くにある「津山城石切場跡」にある矢穴(石を割るためにノミで穿った穴)と同じ大きさのものが石の上下に計9ヶ所残っている。 津山城築城時に切り出された石の一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようである。 この石は「忘れ去られた石」と名づけられた。 平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業「津山歴史時代絵巻〜築城大石曳き〜」 で大谷町内の皆さんによって”歴史石曳き”として修羅(巨石などを運ぶ木製のそり状の運搬具)に載せて、 市内中心部を約400m曳かれた後、津山城跡近くに約400年ぶりに届けられた。(案内板より)
幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。 京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。 天正12年(1584)兄長可(ながよし)の戦死後、家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられる。 後、徳川家康に仕え、慶長5年(1600)信濃(長野県)川中島13万7千石を領す。 同8年美作国一円18万6千5百石を与えられ、津山に入封。翌9年より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。 寛永11年(1634)3代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年65歳。 なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。 (津山鶴山ライオンズクラブの案内板より)
鶴山公園案内所の切符売場のすぐ側に城址碑と冠木門跡。公園の表門と裏門には立派な城址碑がある。
【左】冠木門跡。
【真ん中】城址碑。
【右】冠木門跡側から振り返って。
【右】三の丸から見下ろして。下からも上からも写しにくいな…。
小動物園も気になるところだけど(笑) その向こうに見える見付櫓跡の石垣の大きさにビックリ。
【左】三の丸。右奥が二の丸の石垣。この時は、公園内を清掃中で、シャッシャッって音が響いていた。
【右】三の丸への石段。石垣を上がらずに、小動物園を通って来たので逆から。