トロとまったり・tripのページ(彦根城 その8)

家老 脇家屋敷跡 ・ 家老 木俣屋敷跡

【左】家老 脇家屋敷跡。表門に架かる橋から内堀沿いに左へ進んで。二の丸佐和口多聞櫓付近。(2006/4/30撮影)
【右】家老 木俣屋敷跡。二の丸佐和口多聞櫓&佐和口門跡付近。(2006/4/30撮影)

馬屋

馬屋は、二の丸佐和口多聞櫓のすぐ北側に位置するL字形をした建物で、北側に潜戸をつけた門があり、 内部には、21もの馬立場・馬繋場が設けられ、東端には馬を管理する小部屋が付けられている。 屋根は、柿葺で、壁は、上を大壁とし下を簓子下見板張(ささらこしたみいたばり)となっている。 この馬屋には、常時藩主の馬10数頭が繋がれていた。建立年代は明らかではないが、元禄年代(1688〜1703)頃と、考えられている。 この馬屋は、全国の近世城郭内に残る大規模なものとして、他に例が無く、昭和38年7月1日に重要文化財に指定されている。 全長62.2m、奥行5.9m。(案内板より)
明和4年(1767)に、近くの櫓(佐和口多聞櫓)が焼け落ちた時、馬屋の一部が焼け、その部分の再建には、 馬屋の一部を縮小するとともに、柿葺の屋根は、桟瓦葺にかえられた。また、明治年間には、門から南側の建物が壊され、 残った部分も馬繋ぎのかまえが、殆ど無くなっていた。昭和41年から同43年にかけての解体修理によって、21頭の馬を繋ぐ構えに戻され、 屋根も柿葺になったが、門から南の部分は当初の姿に戻すことができなかった。 なお、門扉部屋の南は、古図に「コシカケ」とあり、下級武士のたまり場だったようである。(案内板より)

【左】この角度、格好いいな。(2007/11/23撮影)
【右】本当にL字型だ(^^)(2007/11/23撮影)

【左】こちらから見るとL字に見えない。(2006/4/30撮影)
【真ん中】特別開放中だった♪(2007/11/23撮影)
【右】閉まっていると少し怖い。(2006/4/30撮影)

【3枚】特別公開中だったので、中を見学♪嬉しいなぁ(^^)(2007/11/23撮影)

二の丸佐和口多聞櫓&佐和口門跡

元和8年(1622)、井伊直孝の第二期築城工事の際に、完成したものといわれている。 左側の建造物は、明和4年(1767)火災に遭い、明和6〜8年に再建され、重要文化財である。 右側の建造物は、明治初期陸軍省により取り壊されたが、開国の大偉業を成し遂げた直弼が桜田門外に倒れた時(1860年)から数えて100年目(昭和35年)の時、 大老開国百年祭記念事業としてその跡地(石垣は、築城当時のもの)に再建された。(案内板より)

【左】二の丸佐和口多聞櫓の左側の重要文化財部分。(2006/4/30撮影)
【右】北東から全体を。こちらの内部は、開国記念館。(2007/11/23撮影)

【左】佐和口門跡。桝形虎口になっている。(2006/4/30撮影)
【右】佐和口門跡を馬屋方面から。(2006/4/30撮影)

【左】二の丸佐和口多聞櫓の左側を、西側から。(2006/4/30撮影)
【右】左の写真の奥側。(2006/4/30撮影)

埋木舎(うもれぎのや)

井伊直弼が17歳から32歳までの青年時代を300俵の捨扶持で過ごした所で、 直弼は自らを生涯花咲くこともあるまいと、埋もれた木に例えて埋木舎と呼んだ。 ここで彼は茶道、華道、禅、歌道、武術などの研究に励んだ。 茶道では石州流を学び裏手にある茶室は、じゅ露軒と名づけ数多くの弟子に一期一会の茶道精神を伝えた。(案内板より)

【左】二の丸佐和口多聞櫓から見た埋木舎と中濠。紅葉がきれい♪(2007/11/23撮影)
【右】二の丸佐和口多聞櫓と中堀と埋木舎(写真右側)。(2006/4/30撮影)

【左】二の丸佐和口多聞櫓から♪(2007/11/23撮影)
【真ん中】近くから。(2006/4/30撮影)
【右】千鳥が飛んでた(^^)(2006/4/30撮影)

いろは松 & 二の丸の石垣

■いろは松…昔は47本あったところから、いろは47文字の頭三文字をとって「いろは松」と呼ばれた。 この松は土佐松で地上に根を張り出さず、人馬の往来の邪魔にならないので、わざわざ高知から移植されたものである。(案内板より)

【左】いろは松。(2006/4/30撮影)
【右】いろは松の奥の中濠を挟んで、二の丸の石垣を♪(2006/4/30撮影)

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