トロとまったり・tripのページ(浜田城 その1)

島根県 浜田城

しまねけん はまだじょう

■浜田城(別名=亀山城)=見学自由
■城山公園、濱田護国神社
駐車場=無料駐車場

2014/8/30現在

住所=浜田市殿町
この時は、国道9号を北上し、浜田バイパス西口信号を左折。 合同庁舎前信号を9号に右折して、川を渡り、その先の右カーブの所に浜田城の看板がある。 でも、こちらからのアクセスの場合、入口がUターンの様な道なので、切り返しが必要。 この時は入口を見落として通り過ぎ、別の場所でUターンして向かった。

浜田城

縦長の縄張り図をクリック→拡大。

浜田城跡は、別名亀山城とも呼ばれ、北の松原湾と南から西にかけて流れる浜田川によって囲まれた標高68mの独立丘陵上に築かれた平山城である。 元和5年(1619)に、伊勢松坂から古田重治が5万4千余石の藩主としてこの地に移り、元和6年(1620)2月に築城工事に着手、同年11月には地普請が終わり、元和9年(1623)5月には城及び城下町が整ったようである。 本丸の北西隅には高さ14mの三重櫓の天守があり、二ノ丸には焔硝蔵、本丸常番所、時打番所などが配置され、 中ノ門外の三ノ丸には御殿、諸役所、御用米蔵などがあった。 城下町は、城の周囲に武家屋敷を浜田川以南に町家を設けている。 浜田城主は、古田家(2代・30年)から、松平周防守家(5代・111年)、本田家(3代・11年)、再び松平周防守家(4代・68年)、 そして松平右近将監家(4代・31年)と変わり、慶応2年(1866)7月に第二次長州征伐で自焼退城となり、その役割を終えた。 (浜田市教育委員会の案内板より・縄張り図等も)

■伝・柿本人麻呂終焉の地(鴨山)… 柿本人麻呂終焉の地は、歌群にある「鴨山」や「石川」をその地として、大和説(奈良県)や石見説(島根県西部)など諸説が論じられている。 石見説では益田市、江津市、邑南町、美郷町にもそれぞれ説があり、この浜田城もその1つとして広く知られている。 浜田城は別名亀山城と呼ばれているが、元々は「鴨山」「神山」と呼ばれていた山を、元和6年(1620)の築城に際して、 亀の縁起にちなみ、改めたと伝えられている。 また、浜田城の周囲を流れる浜田川も文禄3年(1594)の年代が記された『石見軍記』に「石川」と記述されていることが、その根拠になっている。 そしてもう1つの根拠が「人丸神社(柿本人麻呂を祭る神社)」の存在である。 1760年代の様子を描いた『石州浜田城』には、「大コ(太鼓堂)」下に「人丸」と記載されているほか、天明6年(1786)の『御家譜附録』には、 太鼓堂の下に雁木大明神という祠があり、人丸の祠とも山伏の塚とも伝えられていると記述されている。 雁木大明神の祠は雁木社として、現在、城山に鎮座する秋葉神社に合祀されている。(浜田市の案内板より・縄張り図等も)

入口から坂を上がって…

【左】国道9号沿いの入口。西側からだと見落としやすく(←というか、見落とした…。)、入り辛い(^^;)
【真ん中】入口から坂を上がって…。
【右】少し上がった所には、秋葉神社がある。

秋葉神社

当社の御祭神は「火之迦具土神」で、古来火伏の神として信仰厚く、 元牛市町(旧黒川村)東詰に御鎮座になっていたが、明治5年城山に姫栖神社跡であった現在地に、 御社殿を造営し、浜田藩の守護神として亀山城内に奉斎してあった稲荷神社・ 雁木神社・讃樹(岐)神社・厳島神社・柿木神社・姫栖神々社等を合祀してある。 この新社殿は多数の御寄進者の奉納によって、昭和42年春竣工したものである。(牛市町の案内板より)

【左】入口から坂を上がった所。
【真ん中】「秋葉神社は火の神様です」。カエル?でも、耳があるから違うか…(^^;)
【右】秋葉神社付近から。

二ノ丸方面へ

【左】秋葉神社側から二ノ丸方面へ。写真右側が入口方面。
【真ん中】左の写真から二ノ丸へ進んで。
【右】二ノ丸側から。

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