トロとまったり・tripのページ(浜田城 その5)

本丸・一ノ門

本丸への出入口は階段上端に設けられた「本丸一ノ門」しかなかった。 この門をくぐると低い石垣を方形に囲った「三間四方」の空間があった。 現在残されている門の礎石や排水路等は、1857年に改修されたものと考えられる。(浜田市教育委員会の案内板より・絵図も)

【左&左上】二丸側から。木々の影で見えづらい…。
【真ん中】本丸側から。 【右】改修時の礎石。

本丸

本丸は記録に「八百二十一坪半(約2715u)」とあり、 その周囲には高い石垣を築くとともに塀を廻らせ、 塀には狭間と呼ばれる丸、三角、四角形の窓を79個所にあけて、 鉄砲や弓矢で射かけられるようになっていた。 本丸への出入口は階段上端に設けられた「本丸一ノ門」しかなかった。 本丸内の建物としては、門の右横に接して六間長屋と呼ばれる倉庫的な建物(浜田城では櫓とされていない)があり、 本丸左奥には三重櫓(天守)があった。 また、五坪程度の玉蔵(鉄砲などの弾丸を収納)もあった。(浜田市教育委員会の案内板より)

【左上】「報国忠勇之碑」の台座がいやに目立つ(^^;)
【3枚】二丸側から本丸の石垣を。

外ノ浦方面

■外ノ浦(とのうら)の湊…正面の深く入り込んだ入り江が外ノ浦である。 この外ノ浦は、天然の地形を利用した風待港で、西廻り航路が整備された1672年以降、 瀬戸内方面と北陸方面とを結ぶ中継点として、諸国の廻船が多数入港する浜田藩で最大の物資流通拠点だった。 廻船の停泊場所には廻船問屋が建ち並び、その顧客について記された「諸国御客船帳」によれば、 米・塩・砂糖・種油等が荷揚げされ、扱苧(こぎお、こぎそ…麻糸の原料)・干鰯・銑鉄・半紙・塩鯖・ 焼物等の地元特産品が積出しされていたことがわかる。 また、正面の岬上には、浜田藩の為に鎖国の禁を犯して密貿易を行い、 1836年に捕らえられて死罪となった今(会)津屋八右衛門を顕彰した「會津屋八右衛門氏頌徳碑」がある。 (浜田市教育委員会の案内板より)

【左】外ノ浦。きれいな入り江。
【真ん中】左の写真の右奥。山並みがきれい。
【右】付近に大きな石が…。

台座付近

■海と浜田城… 浜田城は平山城であるとともに海城とも呼ばれ、海上交通を重視した城だった。 1626年、スペインの宣教師ディエゴ・デ・Sは船上から築城されて間もない浜田城を見て、 「立派な城である」と報告しており、階上から三重櫓等が望める形で築城されていた。 廻船は眼下の松原湾入口で帆を降ろし、外ノ浦の湊へ小船で曳航されていた。 その湾入口を挟んだ正面右側の丘陵地に、方角石が設置され、船頭たちが天候や潮の流れ等の日和を判断した。 また、浜田川を挟んだ正面の丘陵高所には、灯台としての役割を果たした遠見燈明堂が設けられていた。 背後の台座は、明治36年建立の「報国忠勇之碑」で、 本来その上に砲身と弾丸が設置されていたが、昭和18年に供出され、現在に至っている。(浜田市教育委員会の案内板より・絵図も)

【左】「報国忠勇之碑」の台座。
【真ん中】右奥が方角石、左手前に遠見燈明堂が置かれたそう。

本丸・三重櫓跡(天守)

【左】ポツポツある石は礎石?

三重櫓が実質的な天守であり、「上ノ重五間四面(二十五坪五厘三毛)  中ノ重七間四面(六十七坪二厘五毛) 下ノ重東西九間 南北七間(六十七坪九厘四毛)」 の規模を有し、高さは四丈六尺壱寸、鯱の高さ四尺六寸で、約15mあった。 1827年の記録では、浜田浦(現浜田漁港周辺)から見ると「森の中に城少し見ゆる」とあり、 この櫓が見えていたと考えられる。 ただし、その外観は二層に描いた絵図と三層に描いた絵図とがあり、明らかではない。 正面の展望は、城下と浜田浦の各一部や海岸線の先に長浜湊(現浜田商港周辺)が望め、 山並みの高所が大麻山(たいまさん)となる。 ここを舞台に1866年、第二次長州戦争(石州口の戦い)があり、大村益次郎率いる長州軍に幕府軍が敗れ、 浜田藩は自焼退城という運命をたどった。(浜田市教育委員会の案内板より・絵図も)

【左】三重櫓跡方面。訪れる人が同じ所を歩くのか、一筋の道が…。
【真ん中】残念ながら、眺望は木で隠れてイマイチ。 でも、三重櫓からは、よく見えたんだろうなぁ(^^)

▲上へ戻る