トロとまったり・tripのページ(熊本城 その1)

熊本県 熊本城

くまもとけん くまもとじょう

■熊本城(別名=銀杏城)=500円
開園時間=8時半〜17時半(4月〜10月)
      =8時半〜16時半(11月〜3月)
※閉門はそれぞれ30分後。(休園日=12/29〜31)
駐車場=有料(8時〜閉鎖は時期により変更)
料金=2時間迄200円、以後1時間毎100円
※HPは2004/8/12の写真も使用。

2010/5/1現在

住所=熊本市本丸1番1号
この時は、県道303号を南下、京町1丁目信号を右折。 道なりに左折し、進むと熊本城で、両側に三の丸P。 沿うように進んで、信号を左折、左側に二の丸P。 前回は、県道28号で。市役所方面へ左折し直進。 道なりに進み、市民会館前交差点を右折。 そのまま進み途中で左折、二の丸Pへ右折。

熊本城

案内板の写真をクリック→拡大。

日本三名城の1つ熊本城は、別名銀杏城とも呼ばれる。 現在の城が建つ茶臼山には、中世に既に千葉城と隈本城があり、出田氏、鹿子木氏、城氏、佐々氏と城主を替え、 天正16年(1588)に加藤清正を迎えた。熊本城は、加藤清正により慶長6年(1601)に着工、7年の歳月を費やして築城。 城郭の広さは約98万u、周囲5.3km、120余の井戸、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えで、 美しい曲線で築かれた石垣、自然の地形を利用した独特の築城技術が生かされている。 熊本城は豊臣秀吉の九州統一により、その家臣・加藤清正が熊本統治の拠点として築城したもので、 城下町の整備や優れた治山、治水、産業の振興等、今日の熊本の基礎を築いた。

しかし、加藤家の治世は、徳川氏の忌避に触れ2代44年しか続かなかった。 その後、豊前小倉より細川忠利が封ぜられ、明治4年(1871)まで、11代239年の間細川家の居城として続いた。 明治10年(1877)、西南戦争に際しては、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に50日余りも籠城し、 難攻不落の城として真価を発揮したが、惜しい事に薩摩軍の攻撃の前々日に、 大小天守閣等本丸中心部の殆どの建物が焼失し、宇土櫓他12棟が残り、国の重要文化財となっている。 石垣は、「武者返し」と呼ばれ、現在の天守閣は、昭和35年(1960)に再建されたもの。

【左】加藤清正公の像がある中尾山(本妙寺山)から。
【右】二の丸から。左より宇土櫓、小天守、大天守、西大手門。(2004/8/12撮影)

二の丸

【左】二の丸駐車場。8時過ぎに到着。早いけど、続々!
【真ん中】二の丸広場。北側に二の丸御門跡がある。
【右】二の丸広場から。左より宇土櫓、小天守、大天守、西大手門。 素敵なアングルなのに逆光だった…(^^;)

二の丸御門跡

【左】百間石垣から二の丸御門方面へ。
【真ん中】とても広い桝形を通り、右折れで門跡。
【右】門跡を内側から。

【左】礎石が見られた(^w^)
【真ん中】次に左折れで二の丸へ。写真は、二の丸から。
【右】二の丸。井戸が残る。

【左】二の丸御門を北西から。
【真ん中&右】左の写真の右側の石垣。とにかく大きくて圧倒される〜(@@)

二の丸と西出丸(西〜北)の堀&長塀

西出丸の西側から北側にのびる堀。
【左】二の丸広場側。凄く大きな堀!長塀の奥が戌亥櫓。
【真ん中】西出丸の北側と戌亥櫓。
【右】長塀をメインで♪

二の丸と奉行丸との間の堀

【左】二の丸から西出丸へ向かう道から。
【真ん中】奉行丸の未申櫓付近から。
【右】堀から二の丸の石垣を。

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