トロとまったり・tripのページ(熊本城 その4)

闇(くらが)り御門

【左】闇り通路の入口の闇り御門。
【真ん中】振り返って。本当に、暗い…(^^;)
【右】本丸から、闇り御門の鬼瓦を。

闇(くらが)り通路

【左】闇り通路は、本丸と東竹の丸へ通じる。
【真ん中】本丸へ。 【右】写真右下の本丸御殿の下から本丸へ。

本丸御殿は、2つの石垣を跨ぐ様に建っている為、地下通路を有する特異な構造となっている。 地下通路は、昼間でも暗いことから、闇り通路と呼ばれている。(案内板より)

【左】本丸御殿の玄関(床板張りの廊下と階段)の一部を再現。
【真ん中】東竹の丸へ。 【右】東竹の丸側から。

本丸

【左】9時過ぎの本丸。
【真ん中】大天守から。正面に見えるのが、長局櫓。
【右】凄く人気があったひごまるくん(^^)

大銀杏

ここは築城当時本丸御殿の庭があった場所で、この銀杏の古木は加藤清正が築城を記念してお手植えになったと伝えられている。 清正が亡くなる時に、この銀杏の樹が天守閣と同じ高さになった時に、何か異変が起こるであろうと予言し、それは奇しも、明治10年の西南戦争の時であったと言われている。 西南戦争の際、天守や本丸御殿と共にこの樹も焼失したが、幸いにも焼け残った根元から出た脇芽が成長し、今ではこのように大きく繁っている。 熊本城は、別名「銀杏城」とも呼ばれ、毎年晩秋には、黄金色に色付いた銀杏の葉と黒と白の天守閣との色合いは、訪れる人の目を喜ばせている。(案内板より)

本丸御殿大広間

本丸御殿は、加藤清正によって慶長15年(1610)頃に建設され、細川忠利が寛永10〜15年(1633〜38年)頃に増改築した建物で、西南戦争時(1877年、明治10年)に、天守閣と共に焼失した。 本丸御殿は、桃山時代の武家風書院造りで、藩主の居間、対面所(接客の場)、台所等の機能が備わった大広間・大御台所をはじめ、 数寄屋、書院等の多くの部屋が集まった建物群(53室、畳総数1,570畳を数えたと言われている)であった。(案内板より)

【左下&下真ん中】闇り御門側から。 【右下】復元整備工事中の時。(2004/8/12撮影)

【左】本丸御殿の入口。
【真ん中】鶴之間から続く広間の南側の縁側「大広間縁側」。
【右】「麒麟之間」方面。

【左】「若松之間」。奥が、昭君之間。
【真ん中】大広間で最も格式の高い部屋「昭君之間」。煌びやか!
【右】釘隠し。

本丸御殿の石垣(南〜南東)

3枚=東竹の丸から。
【左】ちらっと本丸御殿♪
【真ん中&右】南東(左の写真の右側)。
【右】上方に、排水溝が。

本丸御殿の闇り通路から東竹の丸へ

【左&右】門から左折れ、右折れ。

【左】正面の本丸の長局櫓を見上げつつ、右折れに。
【真ん中】振り返って。本丸御殿。 両側の石垣を写す為に下がりすぎると、木で隠れたり、影が濃くなったり、なかなか…(^^;)
【右】左の写真の左側の本丸御殿の下側の石垣。

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