トロとまったり・tripのページ(熊本城 その9)

平櫓下から棒庵坂へ

【左】小天守と大天守が見えた(^^)(※小天守と大天守の写真は、天守のページで紹介。)
【右】左の写真付近の井戸。

【左】棒庵坂方面へ進むとこちらにも井戸が。この石垣越しからの小天守が凄く素敵だった♪(※素敵な小天守の写真は、天守のページで紹介。)
【右】この付近の石垣が素敵で、何枚も写真に収めつつ棒庵坂へ。写真右側に見えるのが棒庵坂。

棒庵坂

【左】意外とキツかった…(^^;)
【右】坂から下を。かなり高い!坂を上がって、左折れで北大手門跡へ。

熊本城内には人名の付いた坂が3つあるが、その1つがこの棒庵坂である。この坂の下に下津棒庵の屋敷があったところから命名された。 棒庵は宗阿とも言い、もともとは京都の公家の出であるが、加藤清正の家臣となり、禄2千石を与えられていた。 棒庵は北大手へ入る要衝であったから、坂の途中に番所が置かれており、また坂の南側には石の欄干が設けられていた。 明治以降は手入れも行き届かずに荒廃し、大木鬱蒼として昼なお暗い物寂しい坂であったが、今日ではきれいに手入れされ、城内への歩行者通路となっている。(熊本市の案内板より)

監物台樹木園

【左】棒庵坂を上がって右側。左側には、戌亥櫓が。
【真ん中】振り返って棒庵坂方面。
【右】右折れで、埋門方面へ。

埋門跡

現在のこの冠木形式の門は、市政100周年を記念して造られたもので、 もともとは、屋根を持った櫓門が石垣の間にはめ込まれた埋門であった。 この埋門は、普段は家臣達の城内への出入りに使用されていたが、 有事の際は百間石垣の東側を固めて新堀御門の後盾となる重要な働きをしていた。(熊本市の案内板より)

【右】左側に埋門、右側に百間石垣がのびる。

新堀御門跡付近

【左】埋門跡から北へ。写真奥の辺りにあったのかな?
【真ん中】新堀橋と監物櫓。
【右】立派な城址碑。

監物(けんもつ)櫓

【左】石垣の反りが美しい〜♪ 【真ん中】新堀橋から。
【右】真ん中の写真の左側。下には道路が走り、高さにビックリ。

百間石垣

こんなに高く、しかも後ろ向きでなんて、飛べない(@@)

熊本城北側の重要な守りとして築かれた石垣で、加藤家重臣の飯田覚(角)兵衛が築いたと言われている。 熊本城二の丸の絵図によると、高さは約5間ほどで、長さは101間になる。 この長さから百間石垣と呼ばれるようになった。 言い伝えによると、ある年の正月、三東弥源太(さんとうやげんた)という若者が 家老の長岡監物(けんもつ)邸のしめ飾りを盗んで逃げる時、「えーもさいさい」とばかりに、 この高い石垣から後ろ向きに飛び降りたそうである。それ以来、熊本では思い切った事をする時の例えに 「百間石垣後ろ飛び」という言葉が使われるようになった。(熊本市の案内板より)

【左】そばで見ても迫力! 【真ん中】埋門側から。 【右】二の丸御門方面から。

三の丸

熊本城北西部一帯は、通称三の丸と呼ばれている。 本来は二の丸の一部であるが、百間石垣を境に一段下がっているため、後に三の丸と言われるようになった。 この地区は旧藩時代、上級武士の屋敷跡であり、数度の変遷を経て文政7年(1824)、西側に二の丸御屋形が設けられ、 10代藩主であった斉茲(しげ)公(浜町様)が本山御殿から移ってきている。 この東側は平野九郎右衛門(2千石)さらに郡夷則(こおりつねのり…2千石)、下津工馬(しもつくま…千石)の各屋敷があり幕末まで続いた。 平成5年(1993)、東子飼町にあった旧細川刑部邸を移築復元し、旧藩時代を偲ばせる三の丸史料公園として整備した。(熊本市の案内板より・絵図も)

【左】正面が郡夷則の屋敷跡。
【真ん中】平野九郎右衛門の屋敷跡で、三の丸第2駐車場。
【右】三の丸第1駐車場。

旧細川刑部邸

内部の見学はせずに、遠くから…(^^;)

細川家3代(肥後藩初代)忠利の弟、刑部少輔興孝(おきたか)が、1678年、子飼にお茶屋として建て、 その後下屋敷から本邸として使われた。鉄砲蔵を付設した長屋門を入ると、唐破風屋根の大玄関から母屋、 表客間、入側造りの書院、二階建ての「春松閣(しゅんしょうかく)」と続き、一階は「銀之間」と呼ばれている。 別棟には、書斎の付いた茶室「観川亭(かんせんてい)」や御宝蔵、台所があり、全国有数の上級武家屋敷である。 (熊本市の案内板より)

二の丸御門から西へ

【左】二の丸御門の西側。三の丸第1駐車場から見ると、途中から土塁になっている。
【真ん中&右】宮内橋方面へ。

宮内橋

【左】二の丸の西側。護国神社への道を上がって、宮内橋へ。
【真ん中&右】橋から見下ろして。高いなぁ。

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