■復元できなかった石垣…南北を石垣で挟まれたこの場所は、現在道幅が6mあるが、 実際は石垣間が僅か2mの狭い通路だった。ここには小さな門があったと伝わっているが、 発掘調査では門の跡は見つからなかった。 調査成果の通りに復元できなかったのは、本丸内部に緊急自動車が入れるようにする為である。 発掘した江戸時代の石垣は、土で埋めて、この道路の下に保存している。 道路上の線は、この石垣の場所を示している。(案内板より)
【左】外側(堀跡)。【真ん中】本丸側。
【右】天守台横の続櫓台から見下ろして。右側が堀跡。
【左】パノラマっぽく微妙な加工。 【右】本丸からで、内側は土塁。
【左】天守台横の続櫓台から。
【真ん中】南西隅櫓台から北西方面。
【右】今昔の案内板によると、道路を含む程広かったみたい。
【左】右の写真の反対側。
【右】堀跡を続櫓台から。
かなりきちんとした水路跡(^^)
■石垣を潜る水路…本丸の西側を南北に走る土塁石垣の下から、 本丸の内部と外部を結ぶ木製と石製の水路が1つずつ、合計2ヶ所見つかった。 この場所は、石製水路の本丸側開口部で、ここから本丸の内部に向かって赤石の水路が延びている。 石製水路と赤石水路は、石材が丁寧に加工されている事や、周囲の汚れた水が混じらないような工夫がされている事、 全体が頑丈な造りであることから、本丸内に飲み水等を運ぶ施設であったと思われる。(案内板より)
南西隅櫓台の石垣も築かれて後、何度か修理を重ねている。 右の石は「記石(きせき)」と呼ばれるもので、 表面に「寛保三年癸亥三月良辰 御築謹制之/竹田八右衛門信眞」 と刻まれており、寛保3年(1743)3月に、修理工事が終わった事が記されている。 この時の修理は、元文3年(1738)に幕府の許可を受け、1740年から3年余りの工事が行われた。 竹田信真は、その時の工事に関係した人だと思われる。(案内板より)
【左】北西から。
【真ん中&右】南側の堀越しに。
夜、この横を通った時、まだらの石垣!?って凄くビックリした(笑)
日中に見ると、確かにまだら…(笑)ちなみに、切り石による「亀甲乱積」という手法で積まれている。
【左】案内板を後で読んだ為、横の記石の存在を知らず、見なかった(^^;)
【真ん中】櫓台上へ。
【右】櫓台上。
(パノラマっぽく加工)左より南東〜南側(土塁側)。
【左下】南側の土塁♪
【下真ん中】南西隅櫓台から南側の土塁上を。
高さのある土塁から、広い南濠を眺めるのは、気持ちがいい。
【右下】南濠側から南側を。左端が南西隅櫓台。