寛政8年(1796)の「佐賀城分間御絵図」でみると、 城には北御門・東御門・西御門・裏御門の4箇所に城門が配置されているが、その西御門区域では、 城内へ進む通路を、土橋→木橋→土橋→西御門の多様な配置構成で設定している。 西御門は高麗門で、通り抜けた内部(東側)は、 土塁を用いた堅固な出入口の構造(桝形虎口)を唯一採用する等、 ここから城内へは容易に進入できない工夫もされている。 築城当初の土橋や堀の護岸は、石垣ではなく板と木杭で構築されていたが、 板材の腐朽や土塁の崩落などが起こったことから、寛政年間(1789〜1800)以降に、 赤石を用いた石積みの護岸に改修されている。 しかし、この赤石の護岸は、昭和初期以降に西御門周辺の城の一部が埋め立てられた。 平成20年度の発掘調査の結果、土橋の北側はコンクリートや間知石などに新しく変えられていたが、 南側では良好な状態に残る赤石の護岸を発見し、土橋や木橋が藩政期に改築・拡張されていた事が確認された。 さらに、赤石の護岸は、不等沈下を防止する為に、 胴木(松材)を基礎部に敷き、その上に30cm程度の大きさに加工した石材を5〜6段積みあげるとともに、 それら石垣の崩落を防止する目的で、護岸前面にも角杭や丸太杭を打ち込んで補強する等、 工事全体が伝統的な技術で築かれていた事も判明した。(佐賀市教育委員会の案内より)
【左】東側から西御門跡付近。
【真ん中】西御門橋から東方面に西御門跡。
写している時に車が通ると、少し恥ずかしい(^^;)
【右】真ん中の写真の左側。
【左】「佐賀城西御門と赤石護岸」の案内板。
【真ん中】東側から西御門橋。
【右】西御門橋から西濠・北方面。
【左&真ん中】西側から東方面。
付近の「市道西御門橋線」の石碑。
【右】南西側の濠越しに、西御門橋を。
【左】西御門橋側から南西方面。
【真ん中&右】パノラマっぽく。真ん中の写真正面が、西御門橋。
社会福祉会館敷地に「副島種臣先生生誕之地」碑や説明板がある。
副島種臣は、この地で生まれ幼名二郎、父は国学者枝吉南濠(えだよしなんごう…本名・種彰)。 父や兄・枝吉神陽(えだよししんよう…本名・種経)の感化で、佐賀藩内の尊王論のリーダーとなった。 安政6年(1859)副島家の養子になった。 広い教養とともに長崎では、大隈重信と一緒に英学校到遠館(ちえんかん)の責任者となり、 アメリカ人宣教師フルベッキに学んだことが、明治政府の下で外務卿として活躍するのに役立った。 明治5年の「マリア・ルーズ号事件」では、助けを求めた中国人を解放した事で「正義人道の人」と国際的に支持され、 「日清修好条規」の批准など外交手腕を発揮した。 のち、学識の深さで明治天皇の学問相手(侍講)や内務大臣等を歴任した。 なお蒼海(そうかい)等の号で近代書家、更に漢詩人としても有名である。 墓は高伝寺の他、東京の青山墓地にもある。(佐賀市の案内板より)