えひめけん まつやまじょう
■松山城(別名=勝山城、金亀城)
天守=9時〜17時(入城は30分前まで。)=500円
※ロープウェイ・リフト=往復500円(8時半〜17時半)
(天守及び乗り物は、時期等により時間変動あり。)
駐車場=有料駐車場(多々あり。)
■松山城二之丸史跡庭園=100円
開園時間=9時〜17時(入園は30分前まで)
※時期によって変動あり。
駐車場=無料駐車場
2009/5/2現在
住所=松山市丸之内
この時は国道56号を北進し、直進が196号になる信号で、
県庁方面へ右折。国道11号を県庁方面へ進み、
県庁を過ぎて少しして、案内板のある一番町交差点を左折、
ロープウェイ乗り場を通り過ぎてUターンする様に右の道へ。
左の喜与町駐車場を利用。
松山城は、標高132mの勝山の上にあり、勝山城または金亀(きんき)城とも呼ばれている。
松山城築城の際、山麓の内堀の処が、深い淵になっていて、そこに「金色の亀」が棲んでいたといわれる。
その伝承にちなんで、金亀城と呼ばれるようになった。
松山城は、山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸(堀の内)を置く連郭式平山城で、
敵の進入を防ぐため、二之丸を取り囲むように山麓から本丸にかけて、全国的にも珍しい「登り石垣」が配されている。
松山城の創設者は、賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった嘉明は、
慶長7年(1602)に伊予正木(松前城)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移すため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手した。
おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手ぐり渡しで瓦を運ぶなど、多くの人々が工事に従事した。
翌8年(1603)10月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城とした。
その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく一応の完成をみた。当時の天守は五重で偉観を誇ったと伝えられる。
しかし、嘉明は松山にあること25年、完成直前の寛永4年(1627)2月に、会津40万石へ転封される。
その後、蒲生氏郷の孫、忠知が出羽国(山形県)上山城から入国し、二之丸の築造を完成したが、寛永11年8月
参勤交代の途中、在城7年目で京都で病没し、嗣子がいないので断絶した。
その後、寛永12年(1635)7月、伊勢国(三重県)桑名城主・松平定行が伊予松山15万石に封じられた。
寛永16年(1639)定行は、3年の年月をかけ、築城当時五重であった天守を三重に改築する。
これは、地盤の弱さに起因する天守の安全確保とも、江戸幕府に配慮した為ともいわれている。
ところが、9代松平定国(8代将軍・徳川吉宗の孫)の天明4年(1784)元旦、落雷で天守が焼失した。
焼失後37年を経た文政3年(1820)、父定国の遺志を継いだ11代定通は、復興工事に着手するが、着工16年にして、定通の逝去と作事場の火災で頓挫する。
これを引き継いだ12代藩主・松平勝喜は、弘化4年(1847)城郭復興に着手、ようやく安政元年(1854)悲願の天守が復興した。
これが現存の天守で、姫路城と並ぶ典型的な連立式天守を持ち、慶長期の様式を引き継ぐ、我が国最後の完全な城郭建築といわれる。
【3枚】案内板の写真をクリック→拡大。
【左】松山金亀ライオンズクラブの案内板より。
【他】案内板より。
【左】(切り取り加工)国道196号を北上し、本町1信号手前付近からの遠景。
三津浜港へ向かう途中、見えるかな?と助手席で構えていたけど、見えた時は慌てる慌てる(笑)
(2015/7/3・19時前の撮影)
【下3枚】車中から。三之丸の堀だ!と写すも、なかなか…。かろうじて写せたけれど(^^;)
【左】山麓駅・東雲口。
【真ん中】約3分間で到着!
【右】山頂駅・長者ヶ平(ちょうじゃがなる)
約6分間の空中散歩♪ロープウェイとリフトは共通券なので、選べるのが嬉しい。
【右】勿論、徒歩も可。