本壇東北の隅に位置し、艮櫓・艮門及び小筒櫓を防衛する。 この櫓には松平家の先祖である菅原道真(天満天神)の像を安置し、城の安全を祈ったので、この名がある。 昭和20年戦災により焼失。昭和54年9月に古い資料に基づいて、昔日の姿に復元された。(案内板より)
【左】左側が天神櫓西折曲塀。 【右】天神櫓南塀。
脇戸附の高麗門であって、天守閣の北側に位置し、内門との門が桝形となっている。 天守閣・玄関多聞によって防衛される仕組である。 天明4年(1784)雷火の為焼失し、安政元年(1854)に再建された。 昭和10年国宝に指定されたが、昭和25年法の改正により、重要文化財となった。 昭和25年、43年及び59年、60年に修理が行われた。(案内板より)
【左】天守北側から。
【真ん中】内側から。
【右】桝形から。左側が仕切門、右側が内門。
【右】内門から見下ろして。
乾門方面に対し側防の構えとなっている。 天明4年(1784)雷火の為、天守閣とともに焼失し、安政元年(1854)に再建された。 昭和10年国宝に指定されたが、昭和25年法の改正により、重要文化財となった。 昭和59年、60年に修理が行われた。(案内板より)
天守閣の西側に位置し、仕切門との間は桝形となっている。上の櫓は、天守閣と玄関多聞の通路である。 天守閣及び玄関多聞の戦力によって防衛される。天明4年(1784)雷火の為焼失し、安政元年(1854)に再建された。 昭和8年放火によって焼失したが、昭和43年5月に昔日の姿に復元された。(案内板より)
【左】仕切門側の桝形からで、左側が仕切門、右側が内門。近くて写しづらい…。
【右】筋鉄門側の桝形から。いろいろくっついて複雑。
【左】仕切門側の桝形から。
【真ん中】筋鉄門側の桝形から。
【右】小天守から見下ろして。
玄関を上ったところで、内門櫓を経て天守閣に通じる仕切門・内門・北隅櫓を防衛する。 天明4年(1784)雷火の為焼失し、安政元年(1854)に再建された。 国宝に指定される直前の昭和8年に放火によって焼失した。昭和43年5月に昔日の姿に復元された。(案内板より)
【左】桝形から。左上が北隅櫓で、右側が内門。
【真ん中】装飾に葵の御紋が。
【右】室内。
本壇の西北隅に位置し、乾門・野原櫓および北曲輪方面を防衛する二重櫓である。 天明4年(1784)雷火の為焼失した。 安政元年(1854)に再建されたが、国宝に指定される直前の昭和8年に放火によって焼失した。 昭和43年5月に、昔日の姿に復元された。(案内板より)
【左】下から。【右】桝形から。
北隅櫓と南隅櫓を結び、その桁行が十間であるのでこの名がある。 天明4年(1784)雷火の為焼失し、安政元年(1854)に再建された。 国宝に指定される直前の昭和8年放火によって焼失したが、昭和43年5月に昔日の姿に復元された。(案内板より)
【左】左の北隅櫓と南隅櫓の間。
【右】桝形から。
本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防衛するとともに、二之丸、三之丸を監視する二層櫓である。 天明4年(1784)雷火の為に焼失、安政元年(1854)に再建されたが、国宝に指定される直前の昭和8年に放火によって焼失した。 昭和43年5月、昔日の姿に復元された。(案内板より)
【左】下から。【右】桝形から。
南隅櫓と小天守とを連結する建物で南隅櫓と紫竹門とを防衛する。 天明4年(1784)雷火の為に焼失、安政元年(1854)に再建されたが、国宝に指定される直前の昭和8年に放火によって焼失した。 昭和43年5月、昔日の姿に復元された。(案内板より)
【左】左より南隅櫓、多聞櫓、小天守。
【右】天守から。小天守右に多聞櫓。