貯水池となる水の手。
【左】ラグビー場の南側は水の手。
【右】ラグビー場南側の野球場。この辺りも湿地帯だったのかな。
現在は運動場(ラグビー場)になっている北側まで石垣があって、二の丸御殿が建っていたようである。 その南側は貯水池となる水の手であった。(案内板より)
【左】ラグビー場の北側も東二の丸(水の手北側)。
【真ん中】扇坂御門跡方面。
【右】北側。右奥が東御門跡。
【左】碑では烽火番所跡だけど、東御門跡の案内板だと革櫓跡。
【右】東御門跡から東二の丸の烽火番所?革櫓跡?の石垣。
この門跡は、城下町福岡から城内に入る為のメインゲートである三の丸の上の橋大手門から二の丸に入る主要な門である。 この門の東側石垣上には、二層の炭櫓(高矢倉)、西側には革櫓が設けられていた。 これら建物は、明治時代初期まで残っていたことが、古写真から判明している。 (福岡市教育委員会の案内板より・古写真も案内板より)
【左】外側から。 【真ん中&右】左の写真の左側の石垣を。
【左&真ん中】東二の丸から東御門跡へ。左折れに。
【右】外側から。凄く雰囲気がいい。
鴻臚館は、外国からの賓客をもてなし、滞在させる為に平安京・難波と筑紫の3ヶ所に設けられた施設で、 筑紫の鴻臚館は古くは筑紫館(つくしのむろつみ、又はつくしのたち)と呼ばれた。 奈良時代までは外交専用の施設で、中国(唐)や朝鮮(新羅)からの施設は、 来日するとまずここに収容され、朝廷の許可を得ると京へ向かい、帰国の際にも筑紫から船出しました。 我が国の遣唐使や遣新羅使、留学生等もここから船出するなど、 筑紫の鴻臚館は外国への直接の窓口としての役割を担っていた。 平安時代になると、やがて外交使節の来日が途絶えて遣唐使も廃止され、かわって唐や新羅の商人の来航が増加する。 商人らは朝廷の許可を得て交易を行い、鴻臚館は外交の場から交易の場へと変容していった。 筑紫館の造営は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた大宰府の整備とともに行われた。 筑紫館が初めて記録に現れるのは持統2年(688)。 万葉集には、天平8年(736)新羅への使節一行が筑紫館で詠った16首が残っている。 名を改めた筑紫の鴻臚館は承和5年(838)の記録に初めて現れ、 寛治5年(1091)の記事を最後として歴史の上から姿を消した。 (福岡市教育委員会の案内板・他の案内板より・左上の復元CGも案内板より)
【左&真ん中】平和台球場跡。
これまでの発掘調査により、南北2つの館に分かれていた事等がわかってきたそう。
現在は、海から見た鴻臚館の景観復元を主目的とする調査を行っているそう。
【右】鴻臚館展示館。