【左】案内板より。
【真ん中】駐車場から古写真と同じ方向へ。
【右】真ん中の写真左の石垣。上方が櫓跡。
【左】左折れで門跡。今は木が…。
【真ん中】坂を上がって二の丸、右奥が本丸の石垣。
【右】振り返って。
【左】松ノ木坂門跡から上がって北側。斜め右へ行くと本丸表御門跡。
【真ん中】二の丸。
【右】2004/8/13撮影。
【左】二の丸北側の石垣。
【右】三の丸の駐車場から、松原櫓跡(左側石垣の隅)。
【左】左上の写真の左奥側面で、扇坂御門跡付近から。
【真ん中】二の丸から。休憩所?
【右】二の丸から松原櫓跡。
二の丸から門跡。それにしても、お綱門の説明を読むと凄い話でビックリ(@@;)
東二の丸から扇坂を抜けると、現在は梅の名所として知られる二の丸へと続く。
この扇坂の近辺に「お綱門」と呼ばれる門があった(扇坂御門か東御門か異なる門であるかは諸説がある)。
柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、
恐ろしくも哀れな話が語り伝えられている。後に、浅野の本宅跡に建てられた長宮院に移され、
当院は福岡大空襲で焼失し、跡地には家庭裁判所になっている。(案内板より)
■お綱門…寛永の頃、福岡城主2代藩主黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、
采女と言う芸者を連れて帰った。しかし、家老に諌められて、お側役の浅野四朗左衛門に預ける事に。
浅野にはお綱と言う妻と幼い2人の子供がいたが、采女に心を奪われた浅野は、妻子を顧みなくなってしまった。
簀子町(すのこまち)の本宅に采女を住まわせ、お綱と子供達を箱崎の下屋敷に別居させて、
はじめはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなり、貧しい生活にやきもきしたお綱は
「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度を」を本宅に下男を送る。
ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に申し訳ないと思い、箱崎松原で自害。
これを知って、お綱は狂乱。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え浅野家に走るが、夫は登城していて留守。
逆に屋敷にいた浪人の明石彦五郎に切りつけられてしまった。それでもせめて一太刀とお綱は髪を振り乱し、
血に染まった体をなぎなたで支えながら、夫のいる城へ。
しかし、城門に辿り着くと同時に門に手をかけたまま息絶えたという。(案内板より)
【左】東二の丸側から扇坂御門の桝形方面。左折れで門跡。
【右】桝形から門跡を。