黒田官兵衛孝高(如水…1546〜1604)は、戦国時代の武将で、筑前黒田藩の藩祖とされる。 はじめ赤松氏に一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、のちに羽柴秀吉に従い、 竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国、 四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ、同地に中津城を築いた。 長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。 如水の隠居後、関ケ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ、 筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。 福岡黒田家に仕え、儒者・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記」の中に、 「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。是又本丸より高かりしかば、 山をならしてひきき(低い)岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」 という記述のある「三ノ丸御鷹屋敷」は、現在のここ「牡丹芍薬園」にあった。(福岡市教育委員会の案内板より)
【左】黒田如水公御鷹屋敷跡の碑。
【真ん中】旧母里太兵衛邸長屋門裏側。
【右】赤の●の所が跡地。
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、 黒田二十四騎の1人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。 黒田長政が筑前入国後、6つの支城の1つ大隈城主となったが、 慶長20年(1615)6月6日病没した。(福岡市教育委員会の案内板より)
この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、 慶長年間(1596〜1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移す時、 黒田24騎の1人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、 「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の1つである。 明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、 天神の自宅の門として使用されていたが、戦後富士ビルの建設に伴い、 平岡浩(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されたものである。(福岡市教育委員会の案内板より)
【左】外側から。
【真ん中】内側から。
【右】真ん中の写真の右付近に長く続く石垣。写真奥にも続く(^^)
崇福寺は臨済宗の大徳寺派に属する寺院で、山号を横岳山(おうがくさん)という。 仁治元年(1240)に湛慧(たんえ)禅師によって、大宰府に創建されたが、 天正14年(1586)の島津氏と大友氏との岩屋城の合戦によって焼失した。 その後、慶長5年(1600)に、福岡藩初代藩主黒田長政によって現在地に再建がなされ、 黒田家の菩提寺となった。崇福寺山門は福岡城本丸表御門として建立されたもので、 大正7年(1918)に陸軍からの払い下げによってこの地に移設された。 また、名島城から移築されたものと伝えられる崇福寺唐門があり、 市内に残る唐門の中でも最古のものである。(福岡市教育委員会の案内板より)
【左&真ん中】崇福寺山門(本丸表御門)。
【左】外側から。この門を車でくぐって駐車場へ。
【真ん中】内側。
【右】崇福寺唐門(名島城・移築門)最古だなんて!凄い!
福岡城 2011.8.15記
2回目が7年後とは自分でビックリ(^^;)前回は漠然と歩いて、しかも暑さでやられていたので、 今回は曇りということで、出来るだけ散策!晴天の方が写すにはいいけど…。 ところで、2回目の見学なのに、たくさん残る石垣、下から見上げる多聞櫓に感動! 天守台の石垣の良さも改めて実感し、見渡した景色が、前回より建物が増え、年月を感じた。 途中、通り雨にあい、天守台の展望台の屋根の下で雨宿り(^w^) 前回見学せず、気がかりだった潮見櫓等も見学し、結構歩いたけれど、大満足の散策ができた(^^) 後で知ったのだけど、福岡城の石垣を見る事ができる地下道があるとか…。またの機会があれば、行きたいな♪ ちなみに、のんびりと歩いた見学時間は、約2時間半(崇福寺は車で移動なので含めず)。
福岡城 2004.8.13記
物凄〜く暑い日に行った為、広大な敷地を歩いてて、溶けるかと思った(^^;) ここは公園だからか、犬のフンが多くて歩くのも大変だった!!マナーは!? 城跡としては遺構の石碑がちゃんとあって、かなりわかりやすかった。 でも、今回行った反対側にある潮見櫓、大手門、名島門等は暑さで断念…。 車道からチラッと見えるんだけど(^^;)気候のいい時に、来れるといいなぁ。