【左】上の橋から。
【右】(パノラマっぽく加工)橋を渡って左折れ、次に右折れになる。
【左】(パノラマっぽく加工)右上の写真の左折れの所からで、門跡。この後、右折れに。
【左下】(パノラマっぽく加工)門跡を振り返って(右折れになった所から)。
【右下】明治時代初期頃。(下之橋御門の案内板より。)
【左】上之橋御門跡の石垣方面。
【真ん中】ふんわり開いた蓮の花♪
【右】平和台野球場史の記念碑。
【左】下の橋方面。
【真ん中】ソーラーUFO(太陽光発電水浄化システム)とカモ(^^)
【右】下の橋方面も蓮!
【左】上の橋側から下の橋を。
【真ん中】橋から下之橋御門方面。
【右】橋から西側の堀を。
【左】下之橋御門を♪
【右】黄色の蓮が咲いてた♪
正面の潮見櫓下、左折れで下之橋御門。
【左】門を入った後の桝形を。
【真ん中】下之橋御門から南にのびる石垣を南側から。(写真左側)
【右】真ん中の写真付近から三の丸。
福岡城へは、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれた。 城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋、下之橋、追廻橋にそれぞれあり、 このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)である。 現在の門は文化2年(1805)に建てられたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままだった。 平成12年(2000)に不審火によって被災した為、復旧に向けた調査研究を行い、同20年に二層櫓門として復元した。 門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料等により、 その規模、北側の下屋(げや)の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁などが明らかになった。 また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)等を参考にした。 この復元は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復元整備検討委員会」で検討されたものである。 これとは異なった復元案も提案されたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用した。 (福岡市教育委員会の案内板より・復元修理前の写真も)
【左&左下】下の橋側から。石垣をメインと正面から。
【下真ん中】桝形から内側。
【右下】復元修理前の写真。
【左】下の橋側から見上げて。
福岡城に50近くあった櫓の1つである。大正初期に浜の町の黒田別邸に移築され、 昭和31年(1956)に再移築された。潮見櫓の本来の位置は、 現在の位置ではなく三の丸北西角であり、また、この建物は平成3年の調査の結果、 潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であると考えられている。(福岡市教育委員会の案内板より)
【左】下之橋御門をくぐった桝形から。 【右】南西側から。
【左&真ん中】南東側から。石垣の石の矢穴の1つが気になる(笑)
【右】瓦に黒田家の藤巴紋。