【左】水手口付近の駐車場に設置されていた案内板の「肥前名護屋城図屏風」より。(2017/8/17撮影)
ここは名護屋城のシンボルである天守(閣)が建てられていた天守台である。「肥前名護屋城図屏風」には、五層七階建て (地上6階、地下1階)の豪壮な建物が描かれており、その高さは石垣から約25〜30mであったと推定されている。 発掘調査では、天守の基礎となる礎石(柱の土台石)と地階部分にあたる穴蔵の石垣、穴蔵への2か所の出入口等が発見されている。 礎石は16個が現存しているほか、礎石の抜き跡が6ヶ所で確認されており、不明の2個とあわせ、全部で24個の礎石が据えられていたと推定されている。 このうち、中央部分には心柱を支えた90cm程の礎石が4個置かれ、さらに穴蔵の内面石垣に沿って、60〜80cm程の礎石が南北方向に7個、 東西方向に5個並んでおり、1階床下部分の梁を支える柱に伴うものと考えられる。なお、穴蔵の床面は玉石を敷き並べた土間であった事が分かった。 天守は、江戸時代に入って間もなく、この地が唐津藩に領有されるのに従い、破却を受け、天守台の石垣までも壊されたものと推定される。 江戸時代には、唐津藩によって古城を管理する古城番が城内に置かれるが、天守台の発掘調査でも、城番所に伴うと考えられる造成面や石列が発見されている。 (案内板より・古絵図も)
【左】水手口付近の駐車場に設置されていた案内板の「肥前名護屋城図屏風」より。(2017/8/17撮影)
【右】天守台の案内板より。(2013/6/19撮影)
【切り取り加工】写真中央が東郷平八郎書の名護屋城址碑。左前方の木の所が天守台。(2013/6/19撮影)
【切り取り加工】写真左が東郷平八郎書の名護屋城址碑。写真中央から右が天守台。天守台の右が青木月斗の句碑。(2013/6/19撮影)
【切り取り加工】名護屋小学校の南西の分岐から北西へ進んだ所からの本丸の遠景。写真右上が天守台。(2019/1/3撮影)
【切り取り加工】加藤嘉明陣からズームで本丸。右上が天守台。(2019/1/4撮影)
【切り取り加工】太閤井戸への分岐付近から。写真中央から右上が天守台。(2018/1/5撮影)