■市正曲輪…現在の大阪城梅林の地は、江戸時代、「市正曲輪」と呼ばれ、 豊臣秀吉亡き後、秀頼の後見人として重要な位置を占めた片桐東市正且元の屋敷地の跡と伝えられた。 江戸時代には、青屋口、中小屋、雁木坂の三名の加番大名の官舎が北から順に建ち並んでいた。(パネルより)
【パノラマっぽく加工】天守からの遠景。写真中央下側が市正曲輪。写真右端が二の丸南曲輪の一番櫓。(2006/11/24撮影)
【切り取り加工】天守から市正曲輪方面。写真右側が二の丸南曲輪の一番櫓。(2006/11/24撮影)
【左】市正曲輪。(2006/11/24撮影)
【右】本丸の月見櫓跡から市正曲輪。(2006/11/24撮影)
【左】市正曲輪から山里曲輪の東菱櫓跡の石垣。写真左側の石垣が本丸の糒櫓跡。(2006/11/24撮影)
【真ん中】本丸東側と市正曲輪の西側との内堀。(2006/11/24撮影)
【右】市正曲輪の東側の東外堀方面。(2006/11/24撮影)
【切り取り加工】天守から東外堀を。写真下側が市正曲輪。(2006/11/24撮影)
■玉造門跡…大坂城の東南の搦手口にあたる。ここも大手口と同様な桝形を形成していたが、玉造口の建物は明治元年(1868)の城中大火で、玉造門を残してすべて焼失した。 その後、陸軍の手で玉造門の撤去と石垣部分の変形がなされたので、現在では旧観が全く失われている。 玉造の名称は古代の時代からあった。玉造部(宝石加工技術者)の集落がこの南方にあったことによるものと言われている。(案内板より)
【左】土橋側から。(2006/11/24撮影)
【右】土橋側から入った先に天守♪(2006/11/24撮影)
【左】市正曲輪から玉造門跡方面。(2006/11/24撮影)
【右】玉造門跡。(2006/11/24撮影)
【左】土橋から玉造門跡方面。(2006/11/24撮影)
【右】(切り取り加工)玉造口の石垣と巽櫓跡(右前方)。(2006/11/24撮影)
【左】玉造口から二の丸南曲輪の一番櫓と二番櫓跡。(2006/11/24撮影)
【右】(切り取り加工)南外堀と一番櫓、右奥が玉造門方面。(2006/11/24撮影)
■算用曲輪…大阪城の二の丸東南部、玉造門の南側一帯は、江戸時代、「算用曲輪」とか「算用丸」、「算用場」などと呼ばれた。 この呼称は豊臣時代にまで遡り、当時はこの一帯で、大坂城に収められる貢租や金銀などの算用、すなわち計算が行われた可能性が高い。 (パネルより)
【左】テント禁止と書かれているわりには、いっぱい張っていてビックリ(^^;)(2006/11/24撮影)
【真ん中】公園事務所の東側。(2006/11/24撮影)
【右】噴水。(2006/11/24撮影)